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「科学的社会主義」討論欄

単純な議論の相似性

2000/2/5 吉野傍、30代

 1月30日の陳さんの投稿を批判した2月1日の浩二さんの投稿は、その最後に、「今回のこの陳立夫さんの投稿に対して、吉野傍さんほか、レーニン支持者の方々がどのような反応をされるのか。可能であれば是非おうかがいしたいものです」と書いていますので、簡単にお答えします。
 陳さんの議論は、一読して明らかなように、きわめて物事を単純化した議論です。レーニン時代とスターリン時代の抽象的な分離、善悪の単純な二分法、生きた歴史のダイナミズムを抽象的図式に押しこめる傾向など、典型的に教条主義的な発想に貫かれています。浩二さんは、「いかにもロシア革命やレーニンを擁護するふりをしながら、その実、ロシア革命やレーニンを貶めるのが目的ではありませんか」と書いているように、そう思われても仕方がないほど、単純な議論になっています。私は思わず、JCPウォッチで以前活躍していた1917/1968氏を思い浮かべました。
 しかし、この単純さはある意味で、浩二さんの議論にも通底しています。言ってみれば、お二人は一種の「合わせ鏡」のようになっています。陳さんの議論が、レーニン時代とスターリン時代との抽象的な分離論だとすれば、浩二さんの議論は、両時代の抽象的な同一性論であり、陳さんがあまりにも単純に革命的暴力と反革命的暴力とに区別しているとすれば、浩二さんは、暴力を行使しているかぎりどちらも同一であるとみなしています。そして陳さんがレーニンを単純に絶対善の祭壇に祭り上げているとすれば、浩二さんはこれまた単純にレーニンを絶対悪の肥溜めに叩き落としています。
 お二人どちらにおいても、歴史の生きた具体性や複雑な矛盾は存在せず、歴史は絶対善と絶対悪とが抽象的に対峙しあう三文芝居と化しています。陳さんのような人が、何かの拍子にレーニンに幻滅すると、たちまち絶対否定という極端へと走るものです。逆はありませんが。以上が、私の個人的な感想です。