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「科学的社会主義」討論欄

続・吉野傍さんへ(1)

2000/2/5 浩二、40代

 2月3日付、吉野傍さんの「続・浩二さんへのレス(1)についてです。

それぞれの政策は計画経済とは関係がない、と私は答えたのです。どうも、浩二さんは人の書いたものを正確に読まずに、自分の思いこみで反論する傾向があるようです。

 こちらの思い込みというのではなく、考え方にズレがあるのでしょう。
 吉野傍さんは結局、「レーニンの秘密警察は、計画経済的な政策が直接とられる以前に導入されたのだから、それは計画経済とは無関係だ」と言われるわけですが、これほど機械的な議論も珍しいと思います。レーニンが秘密警察を導入したのは権力維持のためです。なぜそこまでして権力維持を図ったのか? 敵を抑圧するためです。では敵とは誰なのか? 社会主義の敵であり、計画経済の敵です。資本主義的な傾向を持つすべての敵と言っていいでしょう。レーニンは、不破委員長ですら批判し始めたように、権力維持を徹底して追求しました。しかも暴力的に追求しました。その暴力を物理的に支えた中心機構が秘密警察=チェーカーです。なぜレーニンが権力維持に邁進したか。それは社会主義=計画経済を実行するためです。当面の政策が直接計画経済を実行するものかどうかはまったく関係ありません。計画経済を実行するための地ならしとして、チェーカーはふるにその威力を発揮したのです。おかしな議論はされないよう願います。
 チェーカー創設当時、計画経済的な政策が直接とられていたかどうかなど、まったく枝葉末節の問題です。当時のロシアにおいて計画経済を目指せば、権力維持を中心に考える限り、レーニンのやったとおり、超法規的な秘密警察を必要としたのです(だから私は、当時社会主義革命を目指したこと自体が誤りだったと考えています)。レーニンが、自由選挙によって政権交代が起こってもやむを得ないと考える人間だったら、歴史は変わっていたことでしょう。けれどそうではなかった。レーニンは「生ぬるい」路線を取る勢力をことごとく批判しました。レーニンにとって、政権は絶対に「敵」の手に譲り渡すべきものではありませんでした。自由選挙によって合法的に政権交代するなど、レーニンにとって「ブルジョア民主主義」の悪弊の最たるものでした。このあたりは陳立夫さんが「革命暴力と反革命暴力」で解説しておられるとおりでしょう。それをよしとするかどうかは別問題です。当時のロシアで社会主義革命を目指し、政権交代を「噴飯もの」として斥けるならレーニンのようにやるほかはなかった。そして、そのやり方はスターリンによって立派に継続されました。
 ソ連型社会主義の歴史を大づかみにすればこういうことになるだろうと思います。チェーカーを作ったとき、計画経済が直接実行に移されていたかどうかなんて関係ないのです。当時の条件で計画経済を実行に移そうと思えば秘密警察は必然であった。私はそこを言っているのです。

しかし、当初はもっと漸進的な形での社会主義化が展望されていたということです。

 「当初」とはいつのことでしょうか? 二月革命当時、レーニンは社会主義革命さえ展望していませんでした。「今のロシアの状態で社会主義革命を展望するやつは馬鹿だ」とさえ言っていた。それが一年も経たないうちに社会主義革命を実行し、ネップで方向転換するまで過激な経済政策を取りました。この過激な経済政策が内戦の主たる原因だろうことはメドヴェージェフが述べているところです。
 国内の銀行資本を十月革命後わずか1ヶ月でほとんど国有化する政策の、どこがいったい「漸進的な形での社会主義化」でしょうか? 展望していたって、やらなきゃ展望していなかったのと同じです。なぜそうまでして「弁護する」のでしょうか?
 カリーニンについては、メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』からの引用です(p.80)。

問題は、1918年初頭から春にかけて行なわれた大規模な国有化も、「やむなく導入されたに過ぎない」ということです。

 あとからメンシェビキやエス・エルやトロツキーの意見を入れてネップという「後退した」政策を取るくらいなら、最初から実際に「漸進的な形での社会主義化」を実施すればよかったはずです。労働者による記帳と統制によって「何もかも簡単にうまくいく」というレーニンの思惑はことごとく外れました。「大規模な国有化も、「やむなく導入されたに過ぎない」」というのは、政策の失敗を湖塗するものにほかなりません。「やむなく」という言葉で「悪いのはすべて敵だ」とゴマカシているにすぎません。1918年初頭においてこそネップ的な政策を導入すべきだったと思います。ネップがうまくいったのは決して時期の問題ではないと思います。「内戦が終わったあとにネップを導入したからこそうまくいった」などではないはずだ。最初からそうすべきでした。「十分な考慮もせずに、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと考えていたのである」というレーニン自身の反省は、遅きに失したというべきです。唯一弁護できるとしたら、ネップに至るまでの政策が「世界史上初めての実験だった」ということくらいでしょう。だから、後世の者が「あれはやむなくだった」と弁護しているようではどうしようもありません。レーニンの意識としても決して「やむなく」ではなかったと思います。それは吉野傍さんも書かれているとおりでしょう。レーニンは「十分な考慮もせずに」、ただそれがマルクスらによって提唱された社会主義革命の内容だからと言うんで、情勢も具体策も「十分な考慮もせずに」実行されました。レーニンは、こういうふうに反省したこととあわせて、秘密警察による権力維持も放棄すべきでした。自由選挙によって政権交代することは決して「ブルジョア民主主義の悪しき慣習」などではないのです。

企業主やブルジョアジーがいっせいにサボタージュし、生産を拒否し、海外に逃亡し、そのために生産がストップするような事態になったというのに、いったい、どうすればよかったとおっしゃるのでしょう?

 そうなった原因を解消すればいい話ではないですか? 最初からネップ的な政策をとり、徐々に社会主義の方向に向かう。十月革命後たった1ヶ月で国有化された一般銀行も国有化を解除する。社会主義の政策を進めるにあたっては自由選挙によって国民の信を問う。このやり方は決してブルジョア民主主義特有のものではないはずです。それこそ、いつの日か国家が死滅するときが来るまで永遠に必要とされるやり方です。資本主義だ社会主義だで違うはずはありません。ブルジョア議会は自由選挙で政権を交代する、しかし社会主義は違うのだ。こういう「何でも反対」的な考えがレーニンにはあったのでしょう。
 ネップ導入で外国に逃げた人材を呼び戻し、外国資本にさえ応援を頼むくらいなら、なぜ最初からそうしなかったのでしょうか? もちろん、ネップとて万能ではないのだから、資本主義的な弊害が生まれる。その場合も、政策転換するなら、自由選挙によって他党と政策を争うべきです。ネップ政策はメンシェビキやエス・エルのものだった。だから黙っていればメンシェビキやエス・エルの力がまた強くなる。だからこいつらを活動停止にした。こんなレーニンの路線を、いったいどのように理解すれば支持できるというのでしょう?
 自由選挙とか国民の信を問うとか、まるでロシア革命らしからぬことばかり言っていますが、一党独裁の強権によって一つの方向を力で推し進めたソ連型が早々崩壊したことを考えるなら、こうしたまどろっこしいやり方で進めた方がよかったはずです。ただし、その場合は歴史から「反面教師」がいなくなってしまうわけで、反面教師を持たない影響が日本で勃発する=日本で「ロシア革命」が起こる「危険性」が生じたかもしれません。皮肉なものです。

リアリティを理解するべき

 そうですね。十月革命に至った流れは、決してボリシェビキひとりの思惑で人為的に作り出されたものではありませんでした。むしろ、あれよあれよという間にボリシェビキ有利に歴史は展開した。はっきり言えば、ボリシェビキはそうした予期せぬ歴史の流れをちょうだいした、あの流れはボリシェビキにとって棚からボタ餅だったと言えるでしょう。ボリシェビキは、ナチスが政権を取ったときのように、決して計算づくでことを運び勝利をつかんだわけではありません。十月革命に至る流れは自然の流れとしてボリシェビキ有利に展開した。ここは決して見逃してはならないと思います。
 けれど、その流れは、果たして急激な社会主義政策をとる流れをそのまま支持したものだったのでしょうか? 違うと思います。内戦にボリシェビキは勝利した。だったらこれも、急激な社会主義政策が支持されたものかというと全然そうではないと思います。白テロに対しては、食料調達でボリシェビキ政権に過酷な扱いを受けた農民さえ反抗したといいます。前の投稿で吉野傍さんは、内戦になぜ勝利したのか? と言われていましたが、内戦勝利は決してボリシェビキ支持を直接意味するものではないと思います。「与党に政権を任せておけないから日本共産党に投票する」という日本の有権者も、決して日本共産党の路線を支持しているとはかぎりません。これと同じことがボリシェビキの内戦勝利について言えると思います。もし内戦勝利がボリシェビキ勝利を真に意味するなら、再度言いますが、クロンシュタットの反乱など起こり得なかったのです。

これもまったく人の文章を不正確に読んだ結果であるとしか言いようがありません。10月革命は、ブルジョア民主主義革命の歴史的課題を実現することを内包した社会主義革命でした。

 あなた自身の投稿を、あなた自身でもう一度たしかめてください。「社会主義革命」という言葉は2個所にしか出てきませんが、「ブルジョア民主主義革命」という言葉は10個所に出てきます。レーニンのやった革命があたかもブルジョア民主主義革命だったかのような印象を持たせる書き方です。それで私は「怒った」のです。しかも「社会主義革命」という言葉すら、「ブルジョア民主主義革命であると同時に社会主義革命でもあるという10月革命の矛盾した性格」というように、まるで社会主義革命が脇役であるかのような書き方です。歴史を改竄するような書き方は止めてほしいものです。「本来の社会主義」を展望するなら、こうした「あれは社会主義ではなかった」式の言い繕いは止めるべきです。
 しかもこの「ブルジョア民主主義革命」規定ですが、その役割の中に「憲法制定議会の召集」というのが入っています。お聞きします。憲法制定議会は召集だけすればそれでよかったのですか? 「ブルジョア民主主義革命」の役割としての「憲法制定議会の召集」って、いったい何ですか? 召集し、継続する、それならわかります。召集だけして武力で解散させた。その理由が「選挙やってみてボリシェビキは思うように得票できなかったから」。「(爆笑)」マークを入れたいところを必死の思いで耐えています。

10月革命後、ケレンスキーがクラスノフという帝政派将軍のところに逃げ込んで、反乱をそそのかし、ペトログラードに進撃させたという事実を知らないのでしょうか?

 ケレンスキーが十月革命=武装蜂起に対抗するために必死で将軍らを説得し、賛同が得られなくてあえなく沈没したのはわかっています。武力でやられたものを武力でやり返そうとする。ケレンスキーにとっての「敵の出方論」です。何を非難することがありますか? 「武力でやられたら武力でやり返す」のが敵の出方論ではありませんか? この敵の出方論を日本共産党は今でも取っています。違いますか? ケレンスキーもこれと同じことをやったにすぎません。

8月のコルニーロフ事件のときも、自分たちではまったく対処できず、ボリシェヴィキに泣きついてきたという事実を知らないのでしょうか?

 ケレンスキーに泣き付かれボリシェビキは決定的な成果を上げた。だからボリシェビキはそれ以後急激に勢力を伸ばし、十月革命に至る流れを一気に引き寄せました。憲法制定議会を正式な権力とし、エスエルやメンシェビキが政府を作った場合でも、彼らはきっとボリシェビキに泣きを入れたことでしょう。それがボリシェビキのマイナスになったとでも言うのでしょうか?
 どんな理由があれ、憲法制定議会の議員は、十月革命後の選挙によって選出されたものです。吉野傍さんは憲法制定議会の召集は正当だったと言われている。だったらなおさら、武力で解散させる理由などありません。

1918年の1月当時は、ドイツとの講和交渉中であり、ドイツが過酷な講和条件を突きつけて、今にもロシアを侵略せんとしていた緊迫した情勢にあったことも知らないのでしょうか?

 これが、議会を武力で解散させる理由になるんですか?

憲法制定議会解散の後、エスエルの一部が実際に白軍と同盟し、時には白軍の軍事独裁政府の役職にさえ就いたという事実を知らないのでしょうか?

 これのどこが、憲法制定議会を武力で解散させてもいいという理由になるんでしょうか? 憲法制定議会を武力で解散させたからこそ、こうしたことが生じた、というふうには思い当たらないのでしょうか?
 いろいろなことを言われていますが、原因と結果を逆にした議論が横溢していると思います。あまりに単純に原因と結果とを転倒されているのではないでしょうか?

憲法制定議会の解散からクロンシュタットの反乱まで血まみれの3年2ヶ月が横たわっているという歴史的事実を直視するべきでしょう。

 この「血まみれの3年2ヶ月」の間に、ソヴィエトは、前に吉野傍さんが言われたような「革命の指導者たちは、この新しい代議機関にもとづいて、政権を運営することにしました。このソヴィエトでは複数の政党が存在していたし、生き生きとした討論と活動を繰り広げていました」という状態を失ったということです。これまた、「内戦が悪いんだ=敵が悪いんだ」ということでしょうか? 事実は「血まみれの3年2ヶ月」の間に、ソヴィエトは労働者や兵士とはまったく関係ない機関に変容した、ということでしょう。「血まみれの3年2ヶ月が横たわっているという歴史的事実」を、いったいどのように「直視」すればソヴィエトの変容を弁護できるのでしょう? それとも、吉野傍さんはソヴィエトの変容は弁護されていないわけですか? そうするとなぜ憲法制定議会を武力で解散させたか、その理由がなくなってしまいますよ。吉野傍さんは前の投稿で「「ソヴィエト」という、労働者と兵士の代議機関を持っていました」、だから憲法制定議会を武力を解散させてもかまわなかったのだと書かれている。「思い込みだ」と言われるとまずいので、その部分を引用しておきます。

・しかし、フランス革命と違って、憲法制定議会を解散したからといって、民主主義的代議機関がなくなったということではありません。ブルジョア民主主義革命であるとともに社会主義革命でもある10月革命は、単なるブルジョア民主主義革命であるフランス革命と違って、「ソヴィエト」という、労働者と兵士の代議機関を持っていました。革命の指導者たちは、この新しい代議機関にもとづいて、政権を運営することにしました。このソヴィエトでは複数の政党が存在していたし、生き生きとした討論と活動を繰り広げていました。(吉野傍さんの1月19日「浩二さんへのレス(1)」より)
食料独占体制はボリシェヴィキがそれ以前のロシア政府から受け継いだ政策です。

 この食料独占体制をロシアにおける計画経済の萌芽と言われますか。またも「恐れ入りました」と言うほかありません。この食料独占体制、民衆の中で生じた「計画経済の萌芽」なんですか? 下からの自然な力によって生まれたものですか? それとも、ツァーが民衆に押し付けたものですか? たとえ「上からの政策」であっても、それが民衆の利益となるような政策ならば「計画経済の萌芽」と考えていいでしょう。食料独占体制はそのような政策だったんですか? 教えてください。

第1次大戦前においても、大規模産業と軍需産業優先の経済政策が取られており、これもまた一種のブルジョア的計画経済の萌芽です。

 こういうのは統制経済です。計画経済の萌芽ではありません。あなたの言われる計画経済とは、いったい統制経済のことですか?
 私は、政府主導でとられた政策を「計画経済の萌芽」という場合には福祉政策とか部分的な産業の国有化とか、そうした「平時の平和的な政策」しか眼中にありません。あなたの場合、例にあげたのは、みな「上からの政策」であり、しかも統制経済か民衆に対する圧政でしかありません。こういうのを計画経済の萌芽と言われるのか? 吉野傍さんはこういうものばかりあげて計画経済の萌芽と言われる。吉野傍さんの考えておられる計画経済は、まったく「人間の顔をした」計画経済ではありませんね。失望しました。吉野傍さんの「計画経済の計画主体を中央機関にする」という議論も統制経済そのものです。

浩二さんはさらに、「当時のソ連が資本主義に対してどんな道徳的手本を示していたというのでしょうか」とおっしゃていますが、これも歴史的判断としてまったく誤っています。

 あなたの書かれた文章を引用することでレスに代えます。

・その後も、繰り返し計画経済の原理は、資本主義に導入されています。1930年代アメリカにおける大不況下の「ニューディール政策」は典型的な資本主義的計画経済の見本です。……彼らがこうした原理を導入したのは、何といっても、ソ連「社会主義」に道徳的に対抗するためでした。ソ連「社会主義」は、そのあらゆる欠陥にもかかわらず、計画原理の有効性を示し、先進資本主義国の住民に社会福祉の恩恵を与える上で決定的な役割を果たしました。(吉野傍さんの1月20日「浩二さんへのレス(2)」より)

 ご自分が何を書かれたかお忘れのようです。そして、この一文にどんなニュアンスが含まれているか、まったく気づかれていないようです。

ソ連に対する経済封鎖

 あれ??アメリカは第二次大戦前、ソ連をおおいに経済支援していますよ。それに、ソ連はラッパロ条約によりドイツの再軍備に手を貸しています。ナチスドイツがあれほどの軍備を誇っていたのは、結局はソ連のおかげじゃないですか?

外からの脅迫と圧力が厳しければ厳しいほど、内部での統制と強制は強化されます。この両者が結合して、ソ連は崩壊したのです。

 ソ連は第二次大戦後、46年経った時点で崩壊しました。ですからね、ソ連・東欧の崩壊が、資本主義列強による経済封鎖とか経済制裁とか、そういうものが原因で起こったという議論があるなら、どうぞ提示してください。私は吉野傍さんほど勉強していないので、こんな議論のあることを知りません。

またしても、計画経済がただちにノーメンクラツーラ支配を生むという即断がなされています。またしても単純な経済決定論です。

 いいですか。「中央機関による計画」という構造を持つ計画経済がノーメンクラツーラにならない理由をこそ、どうぞ提示してください。私は計画経済一般を否定する気はありません。私の「空論?」の場合、計画経済の主体は個々の企業です。決して「中央機関による計画」ではありません。生産物が売れているか売れていないか、どんな新しい需要があるのか、どうしたら正当な利益をあげることができるのか。それに腐心するのは個々の企業です。これが自然です。労働に対する刺激もこのやり方の方がよりスムーズに生まれます。資本主義的な利益を必ずしも優先するのではないということで、企業に属する人たちの意識も変わってくる必要があります。けれど、その萌芽はすでに生まれてきつつあると思います。「中央機関による計画」なんてのは単なるノルマ社会主義です。特権階級=膨大な官僚=ノーメンクラツーラが出来て、またもや内部崩壊するでしょう。ソ連型という歴史の教訓をまったく生かすことなく。

 今回は(爆笑)マークを入れたい部分がたくさんありました。
 十月革命の前と後とでは、見方を変えるべきだと私は思います。トロツキーの『裏切られた革命』にしても、「十月革命はなぜ社会主義革命でなければならなかったのか?」という視点で読むと、議論に不十分な点が多いように思います。「十月革命は社会主義革命でなければならなかった」を絶対の出発点としてしまうと、議論は必然的に致命的な堂々巡りに陥ります。レーニンを善と規定すると、すべてはスターリンのせいだとしなければならなくなり、そうなると根源的な問いかけは曖昧にせざるを得なくなります。十月革命以降、社会主義革命を実行したこと(「目指したこと」ではありません)自体が間違いだった。いわんやそれを、一党独裁と秘密警察を基礎に進めようとしたのは致命的な誤りだった。その誤りの根源を徹底的に抽出して「本来の社会主義」のために生かすことが必要だと思います。