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「科学的社会主義」討論欄

ソ連社会主義を考える(8)…ボリシェビキの一党支配

2000/2/6 川上慎一、50代

 1917年の革命では、1905年の革命の時にロシアの民衆がつくり出したソビエトがふたたび革命の主要な組織として登場します。ここにはボリシェビキだけではなく、エスエルもメンシェビキも参加していました。これは、やがて革命の組織でありながら、同時に国家権力を担う統治システムとして発展していきます。この過程は決して多数派とはいえなかったボリシェビキがソビエトの中で支持を広げ、指導的な位置を確立していく過程でもありました。
 憲法制定議会の解散、ブレスト条約そして本格的な内戦、干渉戦争の中で、メンシェビキ、エスエル、エスエル左派までもが武力による反乱へと進み、やがて非合法化されていきます。この過程で、どれほどかはわかりませんが、これらの政治勢力の一定の部分がボリシェビキに参加していきます。また、革命後の内戦期を経て貧農を中心としたかなりの農民がボリシェビキに参加していることも想像に難くありません。
 階級構成とその反映である政治勢力は現代ほど複雑なものではありませんでしたから、当時のソ連の主な階級は労働者階級と農民であったと考えていいと思います。労働者階級と農民という2つの階級の間には、社会主義建設をめぐって、一つ間違えば敵対的な関係を生み出すような矛盾が存在していました。そして、それが厳しい対立として顕在化してすることとなれば、社会主義建設そのものが失敗するか、あるいは、著しくゆがんだ社会主義にならざるを得ないという性質のものでした。
 ロシア革命はもともと一国革命として闘われたわけではなく、ヨーロッパ革命の一環として進み、とりわけドイツ革命と呼応するということがレーニンの構想の中にありました。ところが、ドイツではワイマール共和国は成立したものの、レーニンが期待したようなプロレタリア革命としては進行しませんでした。ただし、ひとことつけ加えれば、当時のヨーロッパの労働者階級や民衆の闘いは、帝国主義の干渉戦争を不徹底なものにするという点で最小限にロシア革命に連帯するものではありました。こうした情勢の中では、当時のソ連には「二つの階級の同盟」の上に社会主義建設を進めるという道以外には選択肢がなくなったと思います。
 プロレタリアートの独裁とボリシェビキの一党支配とは原理的には同義だとは私は思いませんが、革命の進行の過程でほとんど同義のものになってしまいました。この状況においては、ボリシェビキによる支配の崩壊は、国家権力を労働者階級と農民の権力を放棄し、売り渡すことに直結していました。クロンシュタットの反乱はソビエト権力を認めながら、ボリシェビキの支配を否定しました。ボリシェビキがこの反乱に対して呵責ない弾圧を加えたのはこのためでしょう。またまた孫引きで恐縮ですが、「党は、数知れない敵に打ち勝った。勝利の中で党は大きく育った。多くの誤りもおかした。だが、党の機関紙は誇らかに言うことができた。『一つの誤りだけはおかさなかった――権力をブルジョアジーに譲ることはしなかった』(党機関紙「プラウダ」(1923年3月14日号)と。」(『ソ連邦史』ボッファ著・第1巻177頁)述べたといいます。国家の政治からも、党内においても「複数制」が排除されたことについては、あとで述べるとして、ボリシェビキの一党支配が成立したことは、先にも述べたようにいくらかは自然にそうなったという要因があったし、何よりも「権力を守る」ということが最も主要な要因であったといえるのではないでしょうか。これらの事情について、ボッファは次のように格調高く述べています。

 党はその背後に、幾百万の大衆を率いてきた。それは普通の選挙戦のことではなく、戦争の最も困難な試練のなかでのことだった。しかもそれが、たたかうことを拒否する瀬戸際まで戦争に疲れきった国でのことである。革命のなかから姿を現したのはロシアのこの党だけだった。その他は没落した。人材が乏しかったがためではない。(中略)。人民大衆の動きと彼らの最もふかい希求とを理解し、それを大胆な決定に移しかえるすべを知らなかったがためである。
 (中略)
 彼らをみちびいた党は、革命闘争のなかで、下部から、すなわち社会の見すてられた最下層から、たえず力を汲みあげてきた。(同177頁)

 私は、ボリシェビキの一党支配が社会主義に必須のものであるとか、社会主義革命と不可分のものであるとか、ということを主張しているのではありません。よこしまなボリシェビキたちがみずからの狭い「支配層としての利益」を実現するためにそれが確立したのではなく、広範なロシアの民衆が参加する革命の過程でそれが発生する条件が生まれたということです。