2月7日付、吉野傍さんの「自分の影法師と闘う浩二氏」についてです。この他にも、吉野傍さんは3通ほど私の投稿に対してレスいただいていますが、このあたりで中間総括としていちおうのまとめとしたいと思います。そして、吉野傍さんには、個人的所有に関する本来の考察をぜひ再開していただきたいと思います。長い間個人的所有に関する吉野傍さんの考察にブレーキをかけ続け、申しわけありませんでした。
今回の投稿も大変長くなってしまいました。ごめんなさい。
さて、2月7日付の上記投稿において吉野傍さんは、「ヨーロッパ革命の勝利なしにはロシアにおいて計画経済を実現することなど、ボリシェビキは考えていなかった」、「平和、土地問題の解決、民族自決権を実現する必要性から必然的に、チェカ創設と憲法制定議会解散が出てきたという意味でなら、もちろん、その通りです」と書かれています。
これ、いったいどう理解したらいいのか。一見そのとおりかもしれないなと思わず納得しないではいられない記述でした。しかしここを納得したら結局は一党独裁も秘密警察も認めなければならなくなる。そのため、消化するのに若干時間がかかってしまいました。
思わず納得というのは、レーニンのボリシェビキがヨーロッパ革命を展望していたということ。これはそのとおりですね。レーニンもトロツキーも、ロシアの全般的な後進性をいやというほど意識させられていたようです。一国で社会主義を完成することなど思いもよらなかった。「十分な考慮なく社会主義を急いだ」というレーニンの反省も並行しているのですが、ヨーロッパ革命という応援を期待していたのは実にそのとおりでしょう。
わからないのは、ヨーロッパ革命への期待が潰えたにもかかわらず、ネップ初期の1921年11月、国家計画委員会(ゴスプラン)が設置され計画経済が本格的にスタートしたということ。吉野傍さんは「10月革命の目標の中に長期の究極的目標としては、計画原理が経済全体を調和的に発展させる社会状態(=社会主義社会)を実現することがあった」とも書かれていますが、「長期の」とはどのくらいだったのでしょう。1921年末といえば十月革命からわずか4年後。「数年のうち」というのがボリシェビキのいう「長期」の意味だったのでしょうか? 内戦や干渉戦が鎮静化し安定期に入った、初期の「十分な考慮もせずに、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと考えていたのである」(レーニン)という経過における教訓によって、一定商業の自由を認めた政策をとった状態(=ネップ政策下の状態)なら、労働者による記帳と統制でない形で計画経済を導入できる、それはロシアという後進国でも可能である、ヨーロッパ革命という応援がなくても一定程度社会主義(計画原理が経済全体を調和的に発展させる社会状態=吉野傍さん)に向かうことはできる、と判断した、ということでしょうか?
結局、ヨーロッパ革命という応援なしで国家計画委員会による計画経済はスタートしました。これはどう考えるべきでしょうか? 計画経済は長期的展望だった、それはヨーロッパ革命なしでは考えられないことであった。吉野傍さんはこの説明を「小学生にでもわかるように説明いたしましょう」という前振りで始めておられますが、私はどうやら小学生以下のようで全然理解できません。どうぞ幼稚園児を相手するよう、噛んで含めて説明していただくことを希望いたします。
欧米帝国主義国に包囲された後進国ロシアにできるのは社会主義実現のためのごく初歩的な諸措置だけであると考えられていました(銀行の国有化や、基幹産業の国有化など)
これまた理解できません。「銀行の国有化や、基幹産業の国有化など」の、どこがいったい「ごく初歩的な諸措置」なのでしょうか? 「社会主義実現のための」ということは、こうした「ごく初歩的な諸措置」は社会主義の中には入らないということでしょうか? 暗黙に対比されている初歩的でない「本来の」、「本格的な」措置とは
いったい何でしょうか?
「後進国ロシアにできるのは、展望する社会主義にいたるまでの資本主義の健全な育成である。それがマルクスの示した道にかなうことである」。これならわかります。事実、日本共産党もこうした漸進的な路線を取っています。それも「きわめて先進的な日本」において、です。「レーニンのとったのは要するに開発独裁的な路線だった」。これもわかります。しかし吉野傍さんが言われているのはこれらのどちらでもありません。
日本共産党は最近、一挙に社会主義をめざすことはできない、社会主義に至るまでには無数の段階があり、それらを一歩一歩解決しなければならないという見解を示しました。私もそのとおりだと思います。
これを「議会主義への堕落」とみるなら、一挙に社会主義への道をとるという方向を取らざるを得ません。日本共産党の議会を通じての一歩一歩戦略に比べれば、「銀行の国有化や、基幹産業の国有化など」の措置をいきなり取るのは、初歩的どころの騒ぎではありません。無数の段階を一挙に飛び越えたきわめて性急な措置です。事実レーニンも「性急だった」と反省の弁を述べているとおりのものです。
なにゆえ、レーニンがネップ以前にとった道を、ことさら「社会主義ではない」というように粉飾されるのか、理解に苦しみます。
あたかも、ボリシェヴィキが、民主主義革命の範囲内に革命をとどめ、社会主義に足を踏み出しさえしなければ、反革命の武力反乱が避けえたかような幻想にふけるのは、そろそろお止めになったらどうでしょうか?
憲法制定議会を武力で解散させ社会主義的な政策を急激にとったこと。レーニンが記帳と統制によって計画経済は簡単に実現できると幻想していたこと。これに比べれば私の幻想などかわいいものでしょう。政権奪取も武力によるものなら憲法制定議会解散も武力によるものです。いったいこれらが、敵に武力反撃の口実を与えなかったとでもおっしゃるつもりでしょうか? これらこそ内戦の原因だったと、なぜ認定できないのでしょう?
これに対して吉野傍さんは別の投稿で、パリ・コミューンを見ろ、スペイン革命を見ろとおっしゃっていますが、この論理でいけば、吉野傍さんとしては、「レーニンが秘密警察=チェーカーを創設したことは全面的に認める」と言わなければ筋が通らないことになる。事実、吉野傍さんは今回の投稿で、「平和を実現し土地を農民に分配し飢えと貧困を克服し被抑圧民族の自決権を実現する必要性から必然的にチェカ創設と憲法制定議会解散が出てきたのだ、とも言えるでしょうね。そういう意味でならもちろん、その通りです」と言っています。では、前の投稿で吉野傍さんが「チェーカーは間違いだった」と言われたのは、いったいどういう意味だったのでしょうか?
銀行資本の国有化はごく初歩的な措置です。日本共産党の旧綱領では、民主主義革命の課題ですらありました。
では、なぜ現在の綱領にはないのですか?現在の綱領には「銀行」という言葉さえ出てきません。旧綱領とはいつの綱領ですか? 因みに私は、日本の銀行自体には憤っています。しかし、銀行の国有化など、「ごく初歩的な措置」とは全然思いません。初歩的だからやっても当然だなどとはさらさら思いません。これは社会主義の中核となる措置のひとつであり、政権党が力で実現していいような政策ではないと考えます。
2月革命=ブルジョア民主主義革命、10月革命=社会主義革命、というスターリニスト的図式を信奉している人だけです。
ですからね、レーニンやトロツキーが、十月革命を社会主義革命ではないと言っている文書があればぜひ引用してくださいと言っているのです。できませんか?
浩二さんは、ケレンスキーの武力反革命蜂起さえ、「武力でやられたものを武力でやり返そうとする。ケレンスキーにとっての『敵の出方論』です。何を非難することがありますか」と述べて正当化しています。ボリシェヴィキのやったことはすべてボリシェヴィキ自身の責任による犯罪であり、ケレンスキーをはじめとする反革命派のやったことはすべて、ボリシェヴィキのせい、というわけです。旧権力の最も恥知らずな弁護論ですね。あきれて開いた口がふさがりません。
では、『敵の出方論』の意味を教えてください。正当な手続きで成立した政府を武力でくつがえそうとする、それを武力で覆そうとする勢力に対しては武力で対抗するのをよしとする。これが敵の出方論です。
吉野傍さんは結局、自称「正義の側」だけが敵の出方論を行使してもいいとおっしゃるわけだ。ケレンスキー内閣は正義ではないから敵の出方論を取ることは許されない。レーニン側だけが社会主義を展望する「正義の」勢力だから、この勢力だけが武力で政権を取ることは許される。そしてこれに武力で対抗する側は正義ではないのだから武力で奪取された政権を武力で取り返そうとすること=敵の出方論は許されないという。誠に哀れむべき論理です。
もう一度言います。憲法制定議会の議員はロシアで初めての自由選挙によって選出された議員です。こうした議員によって構成される憲法制定議会をレーニンは武力で解散させました。
吉野傍さんの言われるとおりであれば、自分が正義の側に立つと、そのように認識している側は、自由選挙によって政権の座をおりることもしない、自由選挙によって反対勢力が議会に多数を占めるなら議会自体を武力で解散させて当然である、要するに自分が正義の側に立つと、そのように認識している側は何をやってもいいのだと、こういうことになります。そして、これに対して反対勢力が武力で対抗するのは間違いである、これによって混乱が生ずるのはすべてこうした反対勢力のせいである。内戦も干渉戦もすべて敵のせいである。吉野傍さんはこう言っているのです。
私の考えが幻想であるなら、吉野傍さんの考えは言葉の真の意味で独善というべきでしょう。
エスエルとメンシェヴィキはそもそも、ボリシェヴィキに泣きつくのではなく、白軍派将軍に泣きついたでしょう。
憲法制定議会選挙によって正当に選出された議員を擁したエスエルとメンシェヴィキが、もしそのまま議員にとどまり政権をになっていたとしたら、いったい何を理由に「白軍派将軍に泣きついた」というのでしょう。ケレンスキーが1917年8月、コルニーロフ将軍に対して、「ボリシェビキを討ってくれ、どうぞ思い通り反乱を進めてくれ」とコルニーロフの反乱を支持していたというなら、この仮定の話も理解できますが、事実は逆です。憲法制定議会選挙によって正当に選出された議員を擁したエスエルとメンシェヴィキは、いったい何を理由に「白軍派将軍に泣きついた」というのですか? 何のためですか? 「一部の反革命派は、ドイツ軍がボリシェヴィキを一掃してくれることを望んでさえいた」にしても、すべて、ボリシェビキが憲法制定議会を武力で解散させたことによって生じた情勢ではありませんか? 3600万もの人間が投票した選挙によって正当に選出された議員をレーニンの武力によって無にされた。それへの反発から「ドイツ軍がボリシェヴィキを一掃してくれることを望んでさえいた」くらいは当然と言えるでしょう。それだけのことをレーニンはやったのです、武力によって。
なります。それとも、数万、数十万の人命よりも、議会の方が大切ですか?
こういうのを本物の機械的な対置と言います。「数万、数十万の人命と議会とどっちが大事だ?」と言われたら、「数万、数十万の人命の方が大切だ」となるに決まっている。こんな機械的な対置が当時あったとでも言うのでしょうか? あったのなら提示してください。それと、レーニンによって引き起こされた内戦は、1000万人の人命を失わせた、そのうち700万人は市民だったそうです。これをどう考えるおつもりでしょうか?
もし、あなたの大好きなメドヴェージェフがそのような馬鹿げたことを書いているのなら、メドヴェージェフは歴史家ではなく、スターリニストと同じく歴史の偽造家です。
残念ながら、私はメドヴェージェフは大好きではありません。レーニン批判が生ぬるいところがあるからです。近々手に入れるヴォルコゴーノフの方が好きになるかもしれません。
おっしゃるようにメドヴェージェフは「馬鹿げたことを書いてい」ます。歴史の選択は一つではなかった、歴史を性急に進めるのは、ロシア革命しかり、エリツィン革命しかり、性急であるがゆえにメドヴェージェフは批判しています。エリツィン革命批判は吉野傍さんもおおいに首肯され、メドヴェージェフが大好きになることでしょう。
スペインの事例こそ、ロシア革命において、もし浩二さんが主張する道をボリシェヴィキがとっていたらどうなっていたかの、見事な見本です。……もし、スペインにボリシェヴィキ政党が存在し、レーニンとトロツキーの路線を取っていたなら、スペイン革命は勝利したでしょう……。そして、ヒットラーとムッソリーニに最大の打撃が加えられ、あの悲劇の第2次大戦やホロコーストを経験することなく、ファシズムの敗北をもたらすことさえできたかもしれません。
何をどう取り繕っても、吉野傍さんがレーニンの秘密警察=チェーカー、そして一党独裁を認めていらっしゃることがよくわかりました。
ところで、ラッパロ条約によりレーニン政権がドイツの再軍備を支援したというのは、どうお考えになりますか? レーニンの期待した革命はドイツには起こらなかった。そういうドイツの再軍備をレーニンは支援した。直接ナチスの軍備に貢献したのではないとはいえ、ナチスの軍備を容易にしたことは否めないでしょう。ラッパロ条約についてはどうお考えになりますか?
しかし、結局ソ連は、ナチスによる侵略の最大の被害国となり、
おやおや、ここではスターリン弁護ですか?
私は、外部からの圧力や攻撃と内部の変質とが両者あいまって、ソ連の崩壊を生んだのだと説明しているのです。そして、革命の内部変質の主要な部分は、その最初の段階で加えられた攻撃によって形作られたのです。
ですからね、ソ連の崩壊はゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチが功を奏したから、あれほど急激に起こったのです。内部崩壊です。抑え付けられていた民衆のエネルギーが爆発したことによってソ連も東欧も崩壊したのです。資本主義列強の経済封鎖などが根本的な要因だと言っている論者、吉野傍さんのほかにだれがいるのでしょうか?
それと、「革命の内部変質の主要な部分は、その最初の段階で加えられた攻撃によって形作られたのです」。またも「敵が悪い」論理ですか。いったい、レーニンの作った国は、「最初の段階で加えられた攻撃」が74年間も続き、それが誰も予想しなかった崩壊を招くほど脆弱だったのですか。
今回の件に関連した記事を、宮地さんのホームページで、見つけましたので列挙します。
「『中央機関による計画』という構造を持つ計画経済がノーメンクラツーラにならない理由をこそ、どうぞ提示してください」。
すでに十分提示したはずなんですが。
そうですか? 今一度まとめてお願いします。私には「示された」という実感が全然ありません。
再度、宮地さんのホームページの記事から関連部分を引用します。
吉野傍さんの構想されている『中央機関による計画』という構造を持つ計画経済は本質的に命令経済そのものです。違うというなら違う面をもっと十分説明していただきたい。
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吉野傍さんのような形でロシア革命をみるというなら、どうぞソ連型社会主義を資本主義との比較の上で賛美し続けてください、と言うより他にありません。資本主義の悪はあげればキリがありません。吉野傍さんは、資本主義と比べればソ連型といえども容認するに如くはないということですので、資本主義の続く限り、ソ連型の再生をも今後も追求されてはいかがでしょうか?
最後に、吉野傍さんは別の投稿でベトナムのことにも触れていますが、文藝春秋2月号にベトナムについて書かれた記事があったのでそれを引用し、レスにかえさせていただきます。
私は学生時代、ベトナム反戦デーのデモで二回逮捕されている。「ベトナム勝利!アメリカ帝国主義粉砕!」は、青春時代のもっとも大きなテーマのひとつだった。だからサイゴン陥落の夜(中略)喜びのあまり寝静まった水俣の町の大通りを、支援者仲間四人で万歳デモして駆け回った覚えがある。しかしそれから二十年後の1995年、私は「ベトナム統一二十周年記念式典」の取材で、初めてベトナムをこの眼で見た。ホーチミン市夜の街を徘徊する乞食のように貧しき人々と、ハノイの高級ディスコで踊り遊ぶ共産党幹部のドラ息子・ドラ娘の群れを見て、”われらがベトナム社会主義”が幻想(ロマン)にすぎなかったことを知った。泣きたかった。俺たちが渾身かけたベトナム反戦って一体なんだったのか……、と立ちつくしたあのハノイの夜も忘れられない「メモリアル・ディ」ではある。(アンケート「20世紀の衝撃の一日」、吉田司氏の記事より)