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「科学的社会主義」討論欄

一人相撲をとる浩二氏

2000/2/18 吉野傍、30代

 少し遅くなりましたが、2月12日の浩二さんの投稿に反論します。といっても、その投稿は全体として、根本的な勘違いもとづく「一人相撲」になっているのですが。
 まず最初に根本的な勘違いについて指摘しておきましょう。私の前回の投稿にある「平和を実現し土地を農民に分配し飢えと貧困を克服し被抑圧民族の自決権を実現する必要性から必然的にチェカ創設と憲法制定議会解散が出てきたのだ、とも言えるでしょうね。そういう意味でならもちろん、その通りです」という文章には、ある大前提があり、それはこの文章の直前にきちんと示されています。それは、「10月革命の諸目標の中に社会主義に向けた最初の一歩を踏み出すという内容が含まれているからという理由で、計画経済の必要性がチェカ創設と憲法制定議会の解散を必然的にもたらしたのだ、という論理が成り立つとすれば」という一文です。この「論理」こそ浩二氏が提起した論理です。つまり、私が言ったのは、もし浩二氏が言うような論理が成り立つなら、同じように、平和の実現や農民への土地分配のためにはチェカの創設や憲法制定議会解散が必要だったという結論にもなるでしょうね、ということです。この結論を認めるのならば、当然、計画経済を実現するためには秘密警察の創設や憲法制定議会の解散も必要だったということも認めなければなりませんね。浩二氏の論理にもとづくなら、当然そうなります。私がなぜ前回の投稿において「自分の影法師と闘う浩二氏」と皮肉な題名をつけたのか、まるで理解されなかったようです。
 しかも浩二さんは、1月31日の投稿の中で「十月革命は戦争終結と土地問題との解決だけにとどめ、産業や銀行の国有化はすべきではなかったと思います」と書いています。つまり、「戦争終結」と「土地問題の解決」をするべきだった認めているのです(あなたの愛する憲法制定議会はこのどちらも拒否しましたが)。あなたの論理にもとづくなら、当然、秘密警察の創設と憲法制定議会の解散を認めなければならなくなります。相手の姿だと思って闘っていたのに、それは本当は自分の影だった、というわけです。
 さて以上で主要な問題は解決しました。次に、その他のさまざまな問題に話を移しましょう。

「吉野傍さんには、個人的所有に関する本来の考察をぜひ再開していただきたいと思います」。

 すでに「個人的所有」に関する連続投稿は終わりました。1月5日の投稿をお読みください。

「わからないのは、ヨーロッパ革命への期待が潰えたにもかかわらず、ネップ初期の1921年11月、国家計画委員会(ゴスプラン)が設置され計画経済が本格的にスタートしたということ」。

 なぜわからないのか、私こそわかりません。まずヨーロッパ革命の期待は別についえていません(そういう発想こそ、スターリンのものでしたが)。さらに、これまでの議論でも少し感じていましたが、もしかしたら浩二さんはネップについて何も知らないのではないのでしょうか? ネップとは、社会主義を目指す政権のもとで計画経済と市場経済とを結合することです。したがって、計画を行なう機関がネップ期に設立されるのは当然ではないですか? これが、長期的展望で社会主義の実現を目指すこととどうして矛盾するのでしょう。完成された計画経済があたかも、突如として天から降ってくるとでも想像しているのでしょうか? しかも、ゴスプランの創設は、計画経済の本格的なスタートとはとうてい言えないものです。だからこそ、計画経済をめぐって、その強化を訴えるトロツキー派と、計画に消極的なトロイカとの間でその後大論争が起こるのです。
 この点が明らかになれば、以下のような浩二さんの批判がまったく的外れであることがわかります。

「吉野傍さんは『10月革命の目標の中に長期の究極的目標としては、計画原理が経済全体を調和的に発展させる社会状態(=社会主義社会)を実現することがあった』とも書かれていますが、『長期の』とはどのくらいだったのでしょう。1921年末といえば十月革命からわずか4年後。『数年のうち』というのがボリシェビキのいう『長期』の意味だったのでしょうか?」。

 「長期の」とは「数十年」を意味しています。ゴスプランの創設は、その「長期の」課題を実現する最初の一歩にすぎません。

「計画経済は長期的展望だった、それはヨーロッパ革命なしでは考えられないことであった。吉野傍さんはこの説明を『小学生にでもわかるように説明いたしましょう』という前振りで始めておられますが、私はどうやら小学生以下のようで全然理解できません。どうぞ幼稚園児を相手するよう、噛んで含めて説明していただくことを希望いたします」。

 本当に「小学生以下」ですね。「計画原理が経済全体を調和的に発展させる社会状態」(すなわち、社会主義社会)と、最初の計画機関であるゴスプランを創設しただけの状態(すなわち、ネップの初期段階)との間には、おそるべき距離があることさえわからないとは…。

「これまた理解できません。『銀行の国有化や、基幹産業の国有化など』の、どこがいったい『ごく初歩的な諸措置』なのでしょうか? 『社会主義実現のための』ということは、こうした『ごく初歩的な諸措置』は社会主義の中には入らないということでしょうか? 暗黙に対比されている初歩的でない『本来の』、『本格的な』措置とはいったい何でしょうか」。

 この文章を読んでいて感じるのですが、おそらく浩二さんの頭の中では「社会主義社会」とその「過渡期」とがまったく区別されていないようです。「社会主義社会」においては、そもそも国家は死滅して存在しないので、「国有企業」という範疇すら存在しません。銀行の国有化や基幹産業の国有化は、場合によっては資本主義国でも行なわれているものであり、その意味で「ごく初歩的な措置」です。それを行なうことは「社会主義」への「過渡期」における措置です。「本格的な」措置の段階では、計画原理はより広範な企業にも及ぶことになるでしょう。戦時共産主義における「行きすぎ」はまさに、そのような広範な企業を含めた計画経済を実施するような能力もないときに、広範な(というよりも、ほとんどすべての)企業を国有化したことです。もちろん、「本格的」な措置の場合には、「国有化」ではなく、「協同組合化」が基本になるでしょう。この点は、私のこれまでの投稿で明らかにしたとおりです。

「『銀行の国有化や、基幹産業の国有化など』の措置をいきなり取るのは、初歩的どころの騒ぎではありません。無数の段階を一挙に飛び越えたきわめて性急な措置です。事実レーニンも『性急だった』と反省の弁を述べているとおりのものです」。

 「いきなり」って何ですか? ボリシェヴィキは銀行の国有化をやることを公約し、その公約が支持されてソヴィエトで多数を取ったのです。したがって、その措置は「いきなり」ではありません。労働者に支持された措置です。レーニンが「性急だった」と反省したのは、銀行の国有化のことでもなければ基幹産業の国有化のことでもなく、中小零細企業まで国有化したことです。何度も書いていますが(いったいいつになったら理解されるのだろう?)、ネップの時期においても銀行や基幹産業は国有でした。

「なにゆえ、レーニンがネップ以前にとった道を、ことさら『社会主義ではない』というように粉飾されるのか、理解に苦しみます」。

 誰も粉飾していません。この文章も「社会主義社会」とそれへの「過渡期」とを混同した議論です。

「政権奪取も武力によるものなら憲法制定議会解散も武力によるものです。いったいこれらが、敵に武力反撃の口実を与えなかったとでもおっしゃるつもりでしょうか? これらこそ内戦の原因だったと、なぜ認定できないのでしょう」。

 こうした言い分はすでにスペイン革命の実例によって粉砕済みです。このことについて、浩二さんはまったく反論できず、秘密警察の話に議論をそらすことを余儀なくされています。

「これに対して吉野傍さんは別の投稿で、パリ・コミューンを見ろ、スペイン革命を見ろとおっしゃっていますが、この論理でいけば、吉野傍さんとしては、『レーニンが秘密警察=チェーカーを創設したことは全面的に認める』と言わなければ筋が通らないことになる」。

 何を寝ぼけたことを言っているのでしょう。「浩二氏の論理で行けば、『レーニンが秘密警察=チェーカーを創設したことは全面的に認める』と言わなければ筋が通らないことになる」というのなら、わかりますが。スペイン革命が敗北した原因は秘密警察を創設しなかったことだ、などといったい誰がどこで書いたのですか? ナンセンスきわまりないたわごとです。スペイン人民戦線政府は秘密警察をちゃんと持っていました。しかも、ソ連肝いりのです(主要メンバーもゲ・ペ・ウから派遣されました)。そして、その秘密警察は、反革命を弾圧するのではなく、革命派を弾圧しました。何よりもトロツキーに近かったPOUM(マルクス主義統一労働者党)を弾圧し、その党首であるアンドレス・ニンを拷問の末、殺害しました。社会主義革命を拒否した人民戦線政府は、秘密警察を持ち、革命派を弾圧し、こうしてスペイン革命を敗北に導きました。社会主義革命と計画経済と秘密警察を一直線に結びつける硬直した思考は、この事実をどのように「消化」するのでしょうね。

「旧綱領とはいつの綱領ですか」。

 第20回党大会で改定される前の綱領です。私はこの綱領で入党し、この綱領で教育されました(そして、現在の党員のほとんどがそうです)。そして、銀行と基幹産業の国有化を目指しているからこそ、民主主義革命は単なる「改良」や「改革」ではなく、「革命」なのだ、と教えられました。しかし、第20回党大会でこの部分が全面改定され、浩二さんがおっしゃるように、「銀行」という言葉さえ出てこなくなりました。正確に言えば、このときにすでに日本共産党は二段階革命論を放棄していたのです。

「ですからね、レーニンやトロツキーが、十月革命を社会主義革命ではないと言っている文書があればぜひ引用してくださいと言っているのです。できませんか?」。

 ですからね、10月革命が社会主義革命ではないとレーニンやトロツキーが言ったという話を、誰がどこで書いたのか、引用してください。できませんか? 何度も言いますが、10月革命は、ブルジョア民主主義革命の諸課題の実現を内包した社会主義革命でした。これはロシアという後進国の特殊性と政治力学の特殊なダイナミズムによって生じた現象であり、「2月革命はブルジョア民主主義革命、10月革命は社会主義革命」という単純な図式では把握できないと言っているのです。

「『敵の出方論』の意味を教えてください。正当な手続きで成立した政府を武力でくつがえそうとする、それを武力で覆そうとする勢力に対しては武力で対抗するのをよしとする。これが敵の出方論です。吉野傍さんは結局、自称『正義の側』だけが敵の出方論を行使してもいいとおっしゃるわけだ」。

 まったく的外れな議論です。「敵の出方論」とは、あくまでも平和革命を目指す党派の議論であり、相手が武力で来たからこちらも武力で行くというような単純な議論ではありません。それなら別に「正当防衛論」で十分です。日本共産党が、人民によって承認された合法的かつ民主的な代議機関での多数獲得を経て社会主義政権をめざしていたとしても、ブルジョア権力はそのような手続きを重視しはしない。彼らはそもそも「敵の出方論」というやわな立場に立ってないのです。したがって、革命勢力は最大限平和的な権力移行をめざすが、それが実現されるとはかぎらない。敵の出方に最大限の警戒心を怠らず、議会で多数を握っただけで権力が移動しうるなどという幻想を持たず、常に大衆を動員し、敵が暴力的行為に出られないような圧倒的力関係を作り出す、という攻勢的立場を定式化したのが、「敵の出方論」です。このような努力にかかわらず、敵が暴力的行為に出たとしたら、街頭を大衆で埋め尽くし、敵が動員した戦車をすら身動きできなくし、彼らの暴挙を麻痺させ、クーデターに立ちあがった兵士をも説得し味方につけ、こうして敵の暴力的策動を粉砕するのが「敵の出方」論です(ソ連の八月クーデターはこのようにして粉砕されました)。もし、このような動員が失敗し、チリ革命の場合のように、クーデター派が勝利したからといって、ただちにこちらも武力闘争だということになるわけではありません。その後は、再び地道な地下活動が始まるのです。まずこの点を、よく理解していただきたい。

「ケレンスキー内閣は正義ではないから敵の出方論を取ることは許されない。レーニン側だけが社会主義を展望する『正義の』勢力だから、この勢力だけが武力で政権を取ることは許される。そしてこれに武力で対抗する側は正義ではないのだから武力で奪取された政権を武力で取り返そうとすること=敵の出方論は許されないという。誠に哀れむべき論理です」。

 誠に哀れむべきは、あなたの方です。ケレンスキー政権がいったいどのような「正当な手続き」を経て成立した政権だというのです? 当時、憲法制定議会はまだ存在していませんでした。ケレンスキー政権は、憲法制定議会の召集を先送りしつづけました。唯一存在した正当な代議機関はソヴィエトでしたが、ソヴィエトで多数を占めていたのはボリシェヴィキです。いわゆる臨時政府というのは、2月革命のどくさくさにまぎれて、帝政時代に国会議員をやっていた連中を中心に作られたでっち上げ政権です。ボリシェヴィキ派の国会議員は、戦争に反対したためにシベリアに流刑されていました。2月革命は帝政を打倒したというのに、この帝政を支え、その帝政のあらゆる政策(帝国主義戦争遂行を含む)を支えてきた連中が「臨時政府」を名乗って、あいかわらず帝政の政策を続けたのです。すなわち、形式的にも内容的にも、この政権は、いかなる正当性も持たないでっち上げ政権だったのです。
 レーニンを指導者とするボリシェヴィキは、唯一正当な代議機関であったソヴィエトにもとづいて政府を作れと主張しました。これが、「すべての権力をソヴィエトへ!」というスローガンの意味です。ロシアの労働者人民の圧倒的多数はこのスローガンに共感を寄せましたが、「臨時政府」を自称した徒党は一貫してそれを拒否し、こうして、正当性もないまま見せかけの「政府」は存在しつづけたのです。10月蜂起を実行したのは、唯一の民主主義的代議機関であったソヴィエトが正規に選んだ革命軍事会議です。つまり、正当な手続きを経て成立した民主主義的機関が、いかなる正当な手続きも経ずに勝手に政府を名乗っている徒党を蹴散らしたのです。そして、この蜂起の結果は、第2回全国ソヴィエト大会において圧倒的多数で承認されました。いかなる正当性も持たない哀れむべきケレンスキーは、頼るべき人民を一人も持たないので、白軍派将軍に泣きついたのです。これが歴史の真実です。

「憲法制定議会の議員はロシアで初めての自由選挙によって選出された議員です。こうした議員によって構成される憲法制定議会をレーニンは武力で解散させました。吉野傍さんの言われるとおりであれば、自分が正義の側に立つと、そのように認識している側は、自由選挙によって政権の座をおりることもしない、自由選挙によって反対勢力が議会に多数を占めるなら議会自体を武力で解散させて当然である、要するに自分が正義の側に立つと、そのように認識している側は何をやってもいいのだと、こういうことになります」。

 これもまったく的外れな反論です。あなたの図式では、正当な手続きを経て成立した「憲法制定議会」を、正当な手続きを経ていないボリシェヴィキが武力で解散させた、ということになります。まったくの嘘です。ボリシェヴィキではなく、ソヴィエト政権が、人民委員会議による正式の決定を経て、憲法制定議会を解散させたんです。そのソヴィエト政権は、ボリシェヴィキと左翼エスエルという複数の政党によって構成され、民主主義的に選出されたソヴィエトによって民主主義的に選ばれた正当な政府でした。つまり、ここでは、正当性を主張する二つの機関同士が争い、どちらが正当な機関であるかが闘われたのです。したがって、ここで問題になるのは、この二つの機関のどちらが、歴史的に見てより正当な機関であったか、です。ソヴィエトはすでに、2月革命以来、1年近く存続し、都市部のすべての労働者、兵士、そして多くの農民によって支持されていました。そして、すでに10月革命によって、でっち上げ政権を一掃し、ロシア史上初めて、人民の下からの支持にもとづいた民主主義的政権を成立させ、人民が望んでやまなかった諸政策――平和の実現、土地を農民に、工場を労働者に――を実施していました。また、すでに、無賠償無併合の民主主義的講和をすべての参戦国に提起し、ドイツと講和交渉の真っ最中でした。
 それに対して憲法制定議会は、投票者数がソヴィエトの場合よりも多いという一点を除けば、いかなる正当性も持っていません。とくに、この選挙で多数を占めたエスエルという政党は、この時点ですでに存在していませんでした。エスエルは分裂し、存在するのは今や右翼エスエルと左翼エスエルでした。憲法制定議会選挙の最初の名簿は、エスエルが分裂する以前につくられたもので、たまたま右翼エスエルが名簿の中で多数を占めていました。都市部では、エスエルは、2月革命後の数ヶ月間で完全に権威を失墜していたので、憲法制定議会選挙でも、エスエルは数%しか獲得していません。それに対して、農村ではエスエルが最大多数を獲得しました。農民は、たまたま名簿の中で多数であった右翼エスエルを支持したのでしょうか? いや、農民は、「すべての土地を農民へ」と主張していたかつてのエスエルの政策に投票したのです。しかし、エスエル右派は、この自分の政策を裏切り、農民に敵対しました。実際、左翼エスエルと右翼エスエルが分かれて選挙に挑んだ別の選挙では、農民は圧倒的に左翼エスエルに投票しました。つまり、農民は、左翼エスエルの政策に投票しているつもりで、右翼エスエルが多数を占める名簿に投票したのです。したがって、エスエルの多数というのは偽の多数だったのです。
 以上の考察から明らかなように、二つの正当な機関のうち、真に正当な民主主義的代議機関はソヴィエトの方でした。二つの代議機関が存続することはありえません。どちらかがどちらかをいずれ解散させるのです。ロシアでは、ソヴィエトが憲法制定議会を解散し、ドイツでは国民議会(憲法制定議会)が、ソヴィエト(レーテ)を武力で解散させ、ついでにローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを虐殺しました。したがって、ソヴィエト政権による憲法制定議会解散には、手続き的見ても内容的に見ても、不正な点も「独善」な点もありません。
 ちなみに、ロシアの人民の大多数は、憲法制定議会の解散に何ら反対しませんでした。憲法制定議会の解散に反対した右翼エスエルとメンシェヴィキの「議員」たちは、周辺でデモを行ないましたが、まったく大衆から見放されていたため、数十人でやるほかなく、それも結局、あまりにも盛り上がらないので、途中でやめてしまったほどです。圧倒的多数の労働者と兵士はソヴィエトこそ、自分たちの機関であるとみなしたのです。

「こういうのを本物の機械的な対置と言います。『数万、数十万の人命と議会とどっちが大事だ?』と言われたら、『数万、数十万の人命の方が大切だ』となるに決まっている。こんな機械的な対置が当時あったとでも言うのでしょうか? あったのなら提示してください」。

 すでに述べたように、当時、すでにソヴィエト政府はドイツと講和交渉をしていました。しかし憲法制定議会の多数派は、ソヴィエト政権を否定し、「平和の布告」や「勤労者人民の権利の宣言」をはじめとする一連の布告をすべて否決しました。そして、憲法制定議会の多数を占めていた人々自身、10月革命までは臨時政府の閣僚として、帝国主義戦争を「最後まで」(つまり勝利まで)続行すると宣言し、その通りの行動をとっていました。つまり、憲法制定議会の支配を認めることは、ドイツと帝国主義戦争を再開することを意味していました。そして、ドイツ軍はロシアとの国境に終結し、機会があればいつでも襲いかかる準備をしていました。

「レーニンによって引き起こされた内戦は、1000万人の人命を失わせた、そのうち700万人は市民だったそうです」。

 内戦はレーニンが引き起こしたのではなく、列強帝国主義諸国と白衛派将軍が引き起こしたのです。そして死者が1000万人というのは、まったくナンセンスな誇張ですね。あなたの議論は、『共産主義黒書』の言い分とそっくりです。この著作はもうすぐ日本でも翻訳出版されるそうですから、あなたのバイブルになりそうですね。そして、「共産主義という悪魔を滅ぼせ!」「奴らを血祭りにあげろ!」と叫び出すことでしょう。

「残念ながら、私はメドヴェージェフは大好きではありません。レーニン批判が生ぬるいところがあるからです。近々手に入れるヴォルコゴーノフの方が好きになるかもしれません」。

 メドヴェージェフからヴォルコゴーノフに乗り換えるのは、実に今のあなたにふさわしいと言えるでしょう。メドヴェージェフは、ソ連時代から反対派であり、何度も弾圧されながら、ソ連の官僚体制を批判してきた人物です。それに対してヴォルコゴーノフは、ソ連時代、将軍として特権の限りをつくしてきました。彼が最初に書いた評伝である『スターリン』は、ゴルバチョフ時代に書かれたので、すべての責任はスターリン個人に帰せられ、レーニンは誤謬を犯したことのない英雄として描かれています。ところが、3部作の最後の評伝である『レーニン』を書くときにはすでに、エリツィン政権になっていたので、今度は諸悪の根源はレーニン自身であったとされています。わずか数年で最も重要な問題の結論を正反対にひっくり返して恥じない男がヴォルコゴーノフです。彼は、その時々の権力の都合に合わせて、いくらでも自分の結論を変える用意があり、その結論にふさわしい「資料」を地下の秘密文書庫から引っ張り出してくるのです。まさにあなたが崇拝するのにふさわしい人物と言えましょう。

「何をどう取り繕っても、吉野傍さんがレーニンの秘密警察=チェーカー、そして一党独裁を認めていらっしゃることがよくわかりました」。

 この妄言も「一人相撲」の最たるものです。レーニンとトロツキーの道とは、土地を農民に、工場を労働者に、という道です。

「ラッパロ条約によりレーニン政権がドイツの再軍備を支援したというのは、どうお考えになりますか? レーニンの期待した革命はドイツには起こらなかった。そういうドイツの再軍備をレーニンは支援した。直接ナチスの軍備に貢献したのではないとはいえ、ナチスの軍備を容易にしたことは否めないでしょう」。

 ドイツは、ナチスが勝利するまで、一貫して最も革命に近い国でした。1918~19年、1921年、1923年と繰り返し革命的危機がおきています。最大の危機は1918~19年の時期でしたが、このときは、ドイツ版メンシェヴィキとエスエル(ドイツ社会民主党)がドイツ版ソヴィエト(レーテ)で多数を占めたため、ドイツ版憲法制定議会(国民議会)がドイツ版ソヴィエトを武力解散させ、ドイツのレーニンとトロツキーであるローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを虐殺し、革命を絞め殺してしまいました。ドイツ社会民主党のこの裏切りさえなければ、そもそもナチスは勝利しえなかったでしょう。そして、ドイツ革命が成功していれば、ソ連が孤立することもなく、スターリン派が勝利することもなかったでしょう。もちろん、言うまでもなく、1930年代におけるスターリニストの「社会ファシズム」論の愚行と社会民主主義者の反共主義とが、最終的にナチスの勝利を決定的にしました。こうした政治的愚行ゆえに、ソ連の軍事支援はドイツ赤軍の武器とはならずに、ドイツ・ファシストの武器となってしまったのです。

「おやおや、ここではスターリン弁護ですか」。

 ナチスの侵略による被害を受けたのは、ソ連人民です。この事実を指摘することがどうしてスターリンを弁護することになるのですか? レーニンとスターリンとの間の断絶を否定することで、スターリンを最も恥知らずなやり方で弁護しているのは、あなたの方でしょう。

「いったい、レーニンの作った国は、『最初の段階で加えられた攻撃』が74年間も続き、それが誰も予想しなかった崩壊を招くほど脆弱だったのですか」。

 逆でしょう。当初レーニンもトロツキーも、ヨーロッパ革命なしではソヴィエト労働者国家は数年ともたないだろうと思っていました。1930年代になっても、トロツキーは、ソ連はナチスの侵略に持ちこたえることはできないだろうと「予言」していました。現実は、10月革命の生命力は、あれほどの大規模な侵略と封鎖、攻撃にさらされながら、74年間も持ちこたえるほど強靭だったということです。パリ・コミューンは2ヶ月しか持ちませんでした。

「そうですか? 今一度まとめてお願いします。私には『示された』という実感が全然ありません」。

 あなたの「実感」に合わせる必要はありません。すでに、何日付の投稿で書いたかを示しているのですから、それを読んでください。それよりも、計画経済が必然的にノーメンクラツーラ支配になる必然性の方を早く証明してください。

「吉野傍さんの構想されている『中央機関による計画』という構造を持つ計画経済は本質的に命令経済そのものです。違うというなら違う面をもっと十分説明していただきたい」。

 すでに説明しました。何度も言わせないでください。

「どうぞソ連型社会主義を資本主義との比較の上で賛美し続けてください、と言うより他にありません。資本主義の悪はあげればキリがありません。吉野傍さんは、資本主義と比べればソ連型といえども容認するに如くはないということですので、資本主義の続く限り、ソ連型の再生をも今後も追求されてはいかがでしょうか?」。

 くだらない揶揄ですね。書き手の品性が疑われますよ。私は一度も「ソ連型社会主義」を賛美していません。むしろ批判しています。しかし、それを「絶対悪」などという形而上学的カテゴリーで断罪するのは、非歴史的であり、非科学的であると言っているだけです(そういえば、「絶対悪」である証明についてはいまだにいただいていませんね)。われわれが目指すのはもちろん、「ソ連型社会主義」ではありません。それは、遅れた資本主義から出発したことや、帝国主義列強の侵略や攻撃、歴史的に最初の経験であること、等々から生じた「歪んだ労働者国家」です。その再生を目指すのは、ナンセンスです。われわれが目指すべきは「人間の顔をした社会主義」です。この点についてはすでに過去の投稿で書いているのに、あたかも私がソ連型社会主義を目指しているかのようなことを書くのは、卑劣な行為です。
 最後に浩二さんが出しているベトナムの例は、いったいどういう意図なのでしょう? それが、社会主義に対する批判になるとでも思っているのですか? 逆でしょう。そうした現象はまさに、ドイモイという市場経済化政策から生じました。それは、市場経済化の一帰結です。誤解のないように言っておきますが、私は基本的にはドイモイ政策はネップの一種であると考えており、それを支持しています。しかし、市場経済化の一側面として貧富の差が拡大し、底辺と上層が生じるのです。それにベトナム政権は、中国と同じく、スターリニスト政権であって、別に理想的な労働者国家でも何でもありません。ベトナム共産党にも巣食っている官僚主義は、この貧富の差の拡大を自分たちに有利なように利用します。こうした貧富の差と官僚的専横の克服こそ社会主義の課題です。