前回の投稿からだいぶ間があいてしまいましたが投稿を続けます。
『世界の歴史』(第15巻167頁・中公文庫)では、スターリン体制の確立を、1917年の2月革命、10月革命に続く「第三革命」と位置づけています。また、トロツキーは『裏切られた革命』(岩波文庫・藤井一行訳)の中でスターリン体制の出現を、フランス大革命におけるジャコバン派の崩壊をもたらした「テルミドールの反動」に擬して「ソヴェト・テルミドール」とよんでいます。
スターリン体制の出現は、レーニンによって指導されたロシア革命に、レーニンの路線とは異質な新しい性格を付与しました。私たちが、今日、「社会主義」という言葉から連想するものは、正確には「ソ連社会主義」というべきであり、それはスターリンによって指導された「社会主義」です。そこには内政・外交においても、理論的にも実践的にも、レーニン時代とは異質なものがあります。
スターリン時代が始まったのは、5カ年計画がスタートした1928年からと考えていいと思います。スターリンが書記長になったのは1922年でしたが、当時、書記長がこれほどの絶対的権力を握るということは予想されたことではありませんでしたし、スターリンの権力は決して簡単に確立したものでもありませんでした。
トロツキー、プレオブラジェンスキーら左翼反対派との闘い、後に、ジノビエフ、カーメネフも加わった合同反対派との闘い、さらに、ブハーリンらの右派の排除など、共産党内の反対派との闘いが展開され、政策論争が根底にある党内闘争に、最終的には国家権力――政治警察・KGB、裁判所など――まで動員し、あらゆる手段を使ってスターリンが完全に勝利するのは1930年代末のことです。
前回の投稿でも述べましたが、1920年代には事実上共産党の一党支配が確立しました。ときのソ連社会では、地主、貴族、ブルジョアジーなどの旧勢力はすでに基本的には崩壊していましたが、膨大な農民が存在し、階級対立が存在しないといえるような社会ではありませんでした。また、生産手段の私的所有が基本的に廃絶されただけの社会であり、生産諸力は著しく低く、恐ろしい貧困が支配する社会でした。トロツキーが指摘するように、このような社会では、乏しい「社会的な富」をめぐる各人の生存競争が消滅するようこともありません。このころのソ連社会には相当に深刻な闘争が起こる社会的な条件が存在していました。ところが、革命の進行の過程で政党としては共産党しか存在しなくなってしまいました。本質的に敵対的とはいえないにしても階級対立が存在し、さまざまな社会的な階層の間の利害の対立も存在する社会は、その内部に政治的な闘いを許容するシステムを内包していなければなりません。
いったん確立した国家権力は、内部の闘争によっては、簡単に崩壊するものではありません。逆にいえば、それゆえにこそ革命によって国家権力を掌握するのであるし、掌握した国家権力をテコとして、旧勢力の反抗を抑圧し、新しい社会を建設していくのです。1920年代初頭には、帝国主義列強の干渉戦争と内戦に勝利をおさめ、帝国主義列強もとりあえずは武力によってソ連を崩壊させるというもくろみを断念しています。この時代にはほぼプロレタリアートの権力が確立したといっていいでしょう。
この時代に政治勢力としてただ一つ生き残ったボリシェビキ(共産党)が、多少とも国内の階級的な対立、社会的な利害関係を正しく反映しているのであれば、党内に相当に深刻な政治路線をめぐる対立が発生することは避けられません。1920年代を通じて展開された政策論争では、いずれの側も社会主義社会の建設に不可欠の前提である「私的所有の廃絶」を否定しているわけではありません。そうであれば、この論争がソ連の崩壊をもたらすことはなかったでしょうから、この論争は党内の徹底した政治闘争として展開されるべきものでした。〔この先は、ここまで言い切っていよいかどうか、自分自身でもやや判断がつきかねるのですが〕、もしこの闘いが党内では解決できなければ、共産党が分裂することになったかもしれないし、そうすると2つの政党が存在することになり、新しい形で複数政党制が誕生した可能性があります。しかし、その後の歴史はやがて第二次世界大戦へと突入していきます。そして、この大戦でソ連がナチスドイツの侵略にもちこたえ、やがて勝利することになりますが、この勝利の要因としてスターリンによる「社会主義建設」があったことは多くの歴史書の指摘するところですから、私の考えが適切であるかどうかは私にもわかりません。ただ、ソ連のその後の歴史の、何らかの時期に、何らかの形で複数政党制が誕生していれば、ソ連の崩壊はあるいは避けられたか、あるいはソ連の歴史はさらに延びたかもしれないと思います。複数政党制はいわば政治システムの一つの現象形態ですから、より正確にいえば、労働者階級や貧農を中心とする農民が、支配階級として政治に参加するシステムが生まれていれば、ソ連の歴史は、実際にたどった道とは異なったものになったかもしれない、ということです。
レーニンはブルジョア民主主義とりわけ議会制度を厳しく批判し、レーニンにおいては、新しい国家の統治形態としてブルジョア的な議会制度は視野に入ってはいませんでした。これに代わるものとして、勤労被搾取大衆が自分の国家を組織し、統治する可能性を容易にするソヴェト組織をあげています。旧ブルジョア機関――官僚制度、富やブルジョア的教育や、手づるその他の特権はソヴェト組織のもとでは廃棄され、勤労被搾取大衆には紙と印刷所を用意することによって出版の自由を偽善的なものから実質的なものにし、りっぱな建物、宮殿、邸宅、地主の家を取り上げ、何千という建物を勤労被搾取大衆に提供することによって集会の権利を実質的に保証する、としています。非地域的なソヴェトを間接に選挙し、自分の地方代議員をリコールしたり、ソヴェト大会に代議員を派遣したりすることによって、「機関全体を、いっそう金のかからないもの、敏活なもの、労働者と農民にいっそう近づきやすいものとする」(「プロレタリア革命と背教者カウツキー」1918年全集第28巻262頁)としています。
10月革命前後のしばらくの間は、蜂起も憲法制定議会の解散も、革命の根幹にかかわる重要なことがらはソヴェトにおける激しい討論、単なる形式としてではない討論を通じて決定されてきました。それがいつの間にか、共産党の決定がそのまま国家権力の意志を表し、共産党政治局が最高決定機関であるかのような様相を呈してきます。いろいろな文献を読んだところでは、ソヴェトが比較的早い時期に形骸してしまったような感じがします。以下は、『ロシア革命』(岩波現代文庫、E.H.カー著)からの要約です。1924年第2回ソヴェト大会でソ連憲法が制定され、ソヴェト大会で選出されるソ連邦中央執行委員会は連邦評議会と民族評議会の二院で構成されるようになりますが、これは、政策決定過程の中で実質的な意味を持つことはなく、モスクワで決定された主要な政策をソ連全土に大衆化し、知らしめるための重要な手段をなしていた、とされます。
話が少し横にそれます。議会制度は君主制などに比べれば進んだ政治システムであることは確かでしょうが、これが、きたるべき社会主義においても当然にして最良の統治形態であるかのように扱われる議論が広く見られます。
現代日本の話ですが、このシステムの根幹にかかわる議員定数の変更がこの国会で可決されました。このとき、議会の中で何一つ討論が行われておらず、自自公の横暴な行動は糾弾されなければなりません。しかし、もしじゅうぶんな討論が行われていたらこの「比例定数削減法案」は成立しなかったでしょうか。民主党もこの法案の内容には反対していないのです。現実の議会内の勢力関係においては、圧倒的な民衆の院外の闘いがあるときにのみ「比例定数削減法案」を阻止するわずかな可能性が生まれる、ということ以上には何の現実性もありません。現代日本の政治を考える上で、反議会主義の立場はこの上なく愚かなものでしょうが、同時に、ブルジョア議会制度に対する根源的な批判を欠落させた「○○議会主義」もマルクス主義的ではありません。○○にどのような形容が入ろうが「議会主義」は「議会主義」です。月刊『経済』に連載されている不破氏の論文を読まれる方は、ぜひ原典をあわせて読んでください。そして、マルクスやエンゲルス、レーニンの思想を全体として理解するようにして、不破氏の引用が「恣意的なものであるか、ないか」を検討していただきたいと思います。多くの場合、理論というのはむしろ「あとからついて来る」ものであり、本音は実践に現れます。不破氏の政治的実践を検証しながらあの連載を読んでいただきたいと思います。不破氏の得意な「○○の歴史において○○を読む」とすれば、「不破氏の歴史において不破氏を読む」必要があります。私は、たとえば「構造改革論批判」などは、どのように読んでも現在の不破氏の路線との間に継承性を見いだすことはできません。優れた理論家というものは、多くの本を読んでいることでもなければ、たくさん物事を知っていることでもありません。その理論の中に真実があるかどうかです。
本題にもどりますが、レーニンが「プロレタリア民主主義は、あらゆるブルジョア民主主義の百万倍も民主主義的である」とした、その核ともなるべきソヴェトが、おそらくは非常に早い時期に形骸化してしまったのではないか、と私はいまのところ感じています。そして、これがスターリン体制の出現につながる重要な政治的な条件の一つになったと思います。これと、あわせて共産党内の政策論争、党内闘争が極めて異常な形で窒息させられていきます。
これはちょうどレーニンが死去し、その後継をめぐる争いであるかのような様相を呈していますが、ソ連の社会主義建設をめぐる路線上の対立が基本となっています。具体的には工業化論争であり、より根源的には「一国革命」か「永続革命」か、をめぐる対立でした。この間の経緯はその後のソ連社会の歩んだ道を決定づけるものであり、次回かその次の投稿で書こうと思っていますが、この投稿では論点をソ連共産党の党内闘争に絞ります。
トロツキーは、ボリシェビキの民主主義的中央集権制を肯定しながら、「実際にはボリシェビズムの歴史はフラクションの闘争の歴史である」(『裏切られた革命』127頁)と述べています。訳者(藤井一行氏)は、訳注(389頁)の中でフラクションの原語である「フラクツィヤ」は“分裂を策す”一派という語意・語感をともなう「分派」なる邦語とは正確には対応していないとしています。私のような30年以上の長い党歴をもつ日本共産党員の中には、スターリン時代に形成された「党の理論」が疑問の余地のない「マルクス・レーニン主義」の原則であるという揺るぎがたい観念があります。さざ波の投稿の中に、トロツキーに対する評価や革命の戦略としての統一戦線に対する評価など、私たちの頭の中で「公理」のごとく定着していることがらさえも、再検討すべきだという投稿があります。今ここで私が述べている党の組織原則に関することもその一つだと思います。
ロシア革命の中で、レーニンが行なった党内闘争とえいるものを、思いつくままにあげると、1917年の四月テーゼ、10月蜂起、1918年のブレストリトフスク条約、1921年のネップの導入などがあります。これらはいずれもロシア革命の将来を決定づけたものでありながら、最初はほとんど党内の支持を得られなかったり、少数の支持しかなかったりして、党全体の方針にはならなかったものです。10月蜂起のときなど、レーニンは党の下部組織における宣伝、扇動の自由を確保する条件をつけて、中央委員会からの辞意を表明するというすさまじいことをします。当時でもすでにレーニンはボリシェビキのぬきんでた指導者であったのですが、その権威だけで党内の多数が獲得できたわけではありません。ねばり強い討論と情勢の検討をすすめる中で、レーニンの方針が採用されるようになります。何よりも、レーニンこそが民衆の動向を誰よりも的確に把握し、革命の未来を正しく見通していたことが、結局、党内多数の獲得を可能にしました。レーニンは中央委員会の多数の意見と異なる見解を公表し、党員や革命的な大衆に訴え、下部組織から支持の声が高まっていくということもありました。
レーニンの行った党内闘争で、彼が勝利しなかった闘いが一つあります。それはスターリンを書記長から排除する闘いでした。
革命運動の中で、少数意見の方が将来を正しく見通していたということはそれほどめずらしいことではありません。問題は、少数派あるいは少数意見が多数派に転化するためには、公開の討論、大衆的な討論が不可欠だということです。このことは、党が正しい路線にたどりつくための組織原則上の最大の保証です。
レーニンが活躍していた時代の党は「非合法の党」です。権力獲得後もだいたいにおいてその組織原則を引きずっています。それでも公然と反対意見が党や政府の機関紙に掲載され、討論紙も発行されています。「世界の転覆という目的をかかげ、その旗のもとに果敢な否定者、反乱者、戦士を結集しようとする真に革命的な組織がいかにして、思想的衝突なしに、グループ化や一時的なフラクションの形成なしに生き、かつ発展しうるであろうか?」(『裏切られた革命』127頁)というトロツキーの指摘は、少なくともロシア革命の歴史を見る限りにおいては、真剣に検討されるべき内容があると思います。彼は「中央委員会はこのわきかえるような民主主義の基盤に立脚していたのであり、決定したり命令したりする勇気をそこからくみとっていたのである。」と続けます。権力獲得から干渉戦争、内戦期というロシア革命の歴史で最も困難であった時期のボリシェビキは、決して一枚岩の党でもなかったし、満場一致の党でもありませんでした。
第20回大会の「分派禁止決議」ついては、すでに私の考えを投稿していますので割愛します。
結論的にいえば、革命後のソ連社会におけるプロレタリア民主主義が大きく損なわれ、共産党内の民主主義も大きく損なわれたこととスターリン体制の出現は不可分のものであったと私は考えています。
もう少し書いて、一区切りという感じなのですが、少々疲れました。次回の投稿で書こうと思います。