12月2日付、吉野傍さんの「「個人的所有の再建」命題をめぐる論争(5)」について一部質問です。ブレーキをかけてばかりで申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
「まず第1に、労働者が資本主義において賃金の引き換えに獲得する「生活資料」は、資本主義的蓄積運動の流れに即して見れば、単なる「可変資本」の転化形態に他ならない。したがって、その「可変資本」が一時的に労働者の手もとに置かれるだけで、その本来の所有権は資本家の手に握られている」
「一時的に労働者の手もとに置かれるだけ」というのはどういうことでしょうか? 誠に卑近な聞き方をして申し訳ないのですが、ショップで買って今テーブルの上に乗っているパソコンは、実は私の物ではなく製造したメーカーの物なんだと、そういう意味でしょうか? 生産物は、誰かが金を払って買われるまでは資本家の所有物だというのは理解できるのですが、「賃金と引き換えに獲得した生活資料」までもが「一時的に労働者の手もとに置かれるだけ」だというのは、いったいどういう意味でしょうか?
次に、
「一時的に労働者に取得される「生活資料」=「消費手段」はきわめて不安定で制限された性質を持っており、とうてい「個人的所有を確立している」とは言えない」
これまたよくわかりません。資本主義下で生産される生産物~消費手段が「きわめて不安定で制限された性質」である、これが資本主義的生産の欠点であるというなら、これまた卑近な聞き方になってしまうのですが、社会主義的生産のもとに生産される生産物は「きわめて安定していて制限のない性質」である、ということになりますね? ではここでいう「きわめて不安定で制限された性質」とはどういう意味でしょうか? まさか物理的な側面を言っている(たとえば全く壊れないとか)のではないと思うのですが、では社会的な意味ではどうなのかと考えると、それはたとえば「3年前に買ったパソコンが古くなった、では『何の代価も払う事なく』新しいパソコンに取り換えることができる」みたいに、必要な物資は「未来永劫不足なく『何の代価も払う事なく』供給されうる」ということなのでしょうか? そして「個人的所有を確立している」状態とは「これがほしい」と思った物はいつでも手に入ると、そういう状態なのでしょうか? まるで、打ち出の小槌みたいですね。
次に、
「労働力が資本家によって購買されないかぎり消費手段を手に入れることはできないし」
まさか社会主義のもとでは働かなくても消費手段を手に入れることができる、などということではないのだろうし、働くには当然働く場所が必要ですが、それとて「誰かに雇われる」形式であることには変わりないと思います、自分が起こした企業で働くのではないかぎり。社会主義にあってはどういう方法で消費手段を手に入れることができるわけでしょうか?
最後に、
「せっかく手に入れた消費手段も、自分の労働力を再生産するのに使ってしまえばなくなり、再び資本家のくびきの元に戻ってこなくてはならなくなる」
まさか社会主義のもとでは、「手に入れた消費手段は永遠に使えるものである」、「消費手段は毎日の生活で使ってもなくなることはない」、「いったん手に入れた消費手段がなくなった場合、再び働かなくても代用物を手にすることができる」などというのではないでしょうね?
大変チャチャ入れ的な質問になってしまいました。ご勘弁ください。書かれていることを読んだら、こんなふうにかみ砕いて質問せねばどうにも埒があかんだろう、という気持ちにさせられてしまいました。吉野傍さんの引用された筆者の方にしても、いったい卑近な例に即して自分でも理解した上で論文を書いておられるのか、非常に疑問でした。それとも、難しい用語を使うことでその辺りをごまかしながら、わかってもいないことをさもわかったふうに書いておられるのでしょうか? 私にはまるで、おとぎ話でも聞かされているような気分にさせ られました。