再建される「個人的所有」の対象はやはり消費手段であるとする林直道氏の最新の議論(「消費手段の個人的所有説」)を何度かに分けて紹介してきましたが、その説に対する私なりの疑問を書いてみたいと思います。
まずその前に、林氏の議論でかなり納得できる点について書いておきます。それは、資本主義社会においては、消費手段に対する労働者の個人的所有は十分に確立しているとは言えない、という論点です。この「十分に確立していない」という点についてはすでに浩二さんより疑問が出されていますので、それに答える形で、私なりの理解を提示しておきたいと思います。
浩二さんは、おそらく、先進国の発達した資本主義社会における労働者の消費生活を念頭において、あのような疑問を呈されたのだと思いますが、かなり豊かな消費手段を持てるのは、世界の労働者の中でごく一部にすぎないし、またその先進国でもごく最近のことに過ぎない(せいぜい20世紀になってから)ということを想起してほしいと思います。
マルクスが『資本論』を書いたとき(あくまでもマルクスの叙述の意味を解釈するために投稿された文章だと言うことをお忘れなく)、すなわち19世紀半ばの労働者の状態は、現在と比べものにならないほど悲惨なものでした。まず給料自体が、月給制ではなく(ちなみにブルーカラーも月給制なのは、日本の特徴です)、日給制か時給制、せいぜい週給制です。つまり、今日のおまんまと最小限度の身の回り品を買うのがせいぜいの給料しか支払われていませんでした。耐久消費財などないに等しく、まさに、今この瞬間、飢えをしのげばなくなるような一瞬の「個人的所有」だったのです。このことの実感なしには、おそらく、マルクスの叙述を理解することはできないと思います。
さらに、浩二さんは、社会主義においては働かなくても消費手段を手に入れることができるのか、と述べていますが、これは問題の本質をはずした議論です。問題は、資本主義においては、働く意志と能力があっても、働くことができず、したがって消費手段を手に入れることができないことがしばしば起こる、という事実です。必要に応じて受け取る「共産主義社会」に至らない社会主義の段階では、もちろん、働く能力のあるすべての人は働くことで消費手段を手に入れます。しかし、資本主義社会においては、たとえ働く意志があり、働く能力があっても、労働力が購買されないかぎり働くことはできないし、消費手段も入手できません。つまり、失業というものが存在するということです。これは「強制された怠惰」と呼ばれていますが、他方では、多くの労働者が過労死するほど長時間働かされているのです。おかしいではありませんか。客観的に仕事がないから失業しているのではなく、資本家にとっては、仕事を必要とするすべての人に仕事を与えるよりも、一部の人間に長時間労働を強いた方が儲かるから、失業が存在するのです。計画経済のもとで、労働と資源の適正配分を行なうなら、強制された怠惰も強制された長時間労働もなくなるでしょう。
労働力が売れないかぎり消費手段を手に入れることができない、という私の文言を浩二さんが読んだ時に、失業のことが頭に浮かばなかったのは、戦後、失業率が一貫して低かった日本の例外的状況の中にどっぷりとひたっていたからでしょう。最も豊かな先進国でさえ10%近い失業率はよく見られますが、後進国や、あるいは、先進国のマイノリティにおいては、失業率は50~60%というのもざらなのです。最近NHKのドキュメンタリー番組を見ていてびっくりしたのですが、現在、失業率が日本よりも低い好景気のアメリカにおいてさえ、居留区のアメリカ先住民(俗称「インディアン」)の失業率は80%だそうです。もちろん、先進国ですから、救貧的福祉があるので、失業者はみな、その福祉で生きています。ぎりぎりの食事、廃棄した電車の車両での生活、そして、精神の荒廃と犯罪と麻薬と売春。彼らははたして個人的所有を確立していると言えるでしょうか? さらに、インドやフィリピンやラテンアメリカ諸国のストリートチルドレンは、下水溝に住んだり、ゴミを漁って生きていますが、彼らは消費手段の個人的所有を十分に確立しているでしょうか?
このような資本主義の現実を見据えるならば、林直道氏が、社会主義の歴史的使命は消費手段の個人的所有を確立することだと主張したことには、十分意味があると思います。とくに、マルクスが、『フランスにおける内乱』で、「個人的所有を真実のものにする」と書いたとき、林氏が言っているようなことを念頭に置いていたのかもしれない、という気がたしかにします。そう考えると、日本の主流の解釈は今ではすっかり「生産手段の個人的所有説」になっていますが、これはある意味で、現在の豊かな日本的現実からマルクスの時代の資本主義を眺めたために生じた、致命的誤謬であるとさえ言えるかもしれません。
しかし、以上のように、林直道氏の議論は説得力があるのですが、それにもかかわらず、なお疑問が残ります。まず非常に素朴な疑問ですが、もし、あの部分で言う「個人的所有の再建」の対象が消費手段であるとするなら、どうして、マルクスはそのように書かなかったのか、ということです。あの部分は実は、初版および第2版から、第3版および第4版になる過程で、大きく書き直されています。その書き直しは、叙述に本質的な違いをもたらすものではありませんが、しかしそれにしても、叙述を変更しているのですから、なぜ、あのわかりにくい部分をわかりやすくするために、「消費手段の個人的所有を再建する」と書き直さなかったのでしょう。もしそうしていれば、そもそもデューリング氏の疑問も生じなかっただろうし、百年以上たってから日本でこれほど激しい論争も起こらなかったでしょう。なぜマルクスはあの部分をああいう曖昧な形のままにしておいたのか。これが第1の疑問です。
第2の疑問は、「生産手段の個人的所有説」論者の主張と一部重なりますが、あの部分が基本的に生産手段に対する労働者の関係を言っていたのはやはり否定しがたい事実であり、突然に最後の「否定の否定」の段階になって、「消費手段の個人的所有」の話になるのか、という疑問です。林氏は、生産様式のみならず取得様式についても言われているので、問題はないという反論をしていますが、これは一面的です。というのは、取得様式ということで念頭に置かれているのは、「生産物の取得様式」のことです。その「生産物」には、消費手段のみならず生産手段も含まれています。生産手段が資本家によって私的に独占されている社会においては、その生産の産物の所有権は、それを実際に作った労働者の手に帰属するのではなく、生産手段の所有者の手に帰属します。これが資本主義的取得様式です。この生産物の使用価値に着目するなら、その生産物は消費手段かもしれないし、生産手段かもしれない。消費手段の場合には、いったん資本家の所有に帰属した後に、労働者は自らの賃金と引き換えに改めてそれを購買することで入手しなければなりません。しかし、最終的に労働者の帰属になるのは、生産物の一部でしかありません。いずれにせよ、生産物の取得様式の話は、けっして一概には、消費手段が最終的に誰の所有に帰属するかという話には結びつかないのではないでしょうか。
3つ目は、疑問というよりは別の論拠ですが、「生産手段の個人的所有説」には捨てがたい理論的魅力があることです。労働者民主主義の所有論的基盤として、生産手段に対する労働者の個人的所有を認める議論は、今でも新鮮な響きを持っています。とりわけ、多くの「社会主義」の実験が、生産手段の官僚的支配と独占に行きつき、末端労働者不在の官僚的計画経済が行なわれてきた現実を見据えるとき、個々の労働者の生産に対する関与を積極的に奨励する「生産手段の個人的所有説」には、なお探求すべき開かれた可能性があるように思えます。
マルクス自身があの部分をどういう意味で書いたのかという問題は、こうしてみると、社会主義の問題を考える上で多くの豊かな論点を提起しているのではないでしょうか。