12月22日付、吉野傍さんの「『個人的所有の再建』命題について(7)」についてです。毎度ブレーキをかけてすみません。
社会主義がなぜ立ち行かなくなったのかを考える場合、耐久消費財が一部の先進国で個人所有できる段階に至ったまさにその瞬間、「実在した」社会主義の欠陥が暴露したことに注目すべきではないでしょうか? 資本主義といえども、生産力の低かった時代には個人で車を持つとかはできなかった。第一、20世紀に入って耐久消費財が続々と誕生した時期、ソ連はすでに存在した訳です。じゃあなぜソ連がこうした面で世界を主導できなかったのか? 吉野傍さんの論理でいけばここを解明しなければなりません。資本主義のもと、一部の先進国で曲がりなりにも耐久消費財が個人所有できる段階になって、社会主義にはそれができないことがわかった。比較するならこのようにすべきだと思います。
マルクスの時代に耐久消費財を個人所有できなかったのは、資本主義「ゆえに」ではないでしょう。吉野傍さんの書き方では、マルクスの時代であっても、社会主義なら耐久消費財を個人所有できたはずだとなってしまいます。これほど架空の話はありません。
「社会主義においては働かなくても消費手段を手に入れることができるのか、と述べていますが、これは問題の本質をはずした議論です」についてですが、吉野傍さんの引用された林氏の言い方では、「なんで消費手段を手に入れるために、資本家のもとにわざわざ働きに行かなくてはならないのか? そんな馬鹿馬鹿しいことはないではないか?」と言っているように聞こえるのです。それでああいう質問の仕方になりました。つまり、失業とはまさに逆で、「働きたい人間は、搾取する資本家のもとに出向かなくてはならない。それが資本主義の問題だ」と林氏は言っている。私はそう受け取りました。林氏の、「せっかく手に入れた消費手段も、自分の労働力を再生産するのに使ってしまえばなくなり、再び資本家のくびきの元に戻ってこなくてはならなくなる」という言い方がそれです。「資本家のくびきの元に戻ってこなくてはならなくなる」。だったら戻らなくてもいいわけで、しかしそれでは失業状態になるという
なら、何か対策を立てなければなりません。これ、失業問題とはちょっと角度が違うと思うのです。だから私は失業問題には触れませんでしたし、触れる必要すら思い浮かびませんでした。
「計画経済のもとで、労働と資源の適正配分を行なうなら、強制された怠惰も強制された長時間労働もなくなるでしょう」。これは机上の論理でしかないでしょう。たしかに失業はなくなるでしょうが、それをはるかに上回る否定的事態が生み出されます。なぜソ連は改革によって乗り切ることができなかったのか、なぜ大衆に必要な物資を生産できなかったか、いったい何を計画していたのか、なぜ労働にモチベーションが失われたのか。崩壊したソ連・東欧の人たちは今すぐ西側社会には適応できないという理由もあって昔をなつかしんでいる人たちがたくさんいるようですが、それは市場経済自体を否定する考えにまではいたっていないだろうと思います。
「計画経済のもとで、労働と資源の適正配分を行なうなら、強制された怠惰も強制された長時間労働もなくなるでしょう」。これが実現できるものならソ連はできたはずです。たった74年で崩壊したとはいえ「74年間も生き延びた」とも言えるわけで、だったらその中で少しでも計画経済の理想状態にもっていけなかったのはなぜなのか? 計画経済は新しい商品、新しい技術を嫌います。いったん立てた計画がすべて狂ってくるからです。「そんなことはない、どんどんやればいいだけの話だ」というなら、社会主義国の現実はどう考え
ればいいのでしょうか?ノルマ制度が悪かったということになるのかもしれませんが、ノルマと無縁な計画経済など考えられない。市場経済を基本とし、不足部分は政府が計画を立てて発注する、とでもいうような形にでもしないと、実際はとても回っていかないと思います。全面的に計画経済などにしたら身動きは取れなくなるでしょう。第一、計画を立てるためには膨大な官僚機構が必要になる。ノーメンクラツーラ支配の悲劇の二の舞になるということです。
市場経済自体は単なるシステムです。システムとしてこれを壊すことは、市場経済に変わるシステムが発明されるか、市場経済の中から生まれてこない限り、無謀ではないのでしょうか?