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「科学的社会主義」討論欄

ソ連社会主義を考える(2)…「ソ連=国家資本主義」論

1999/12/27 川上慎一、50代

 「ソ連=国家資本主義」論の歴史は古く、日本でも戦後間もなく展開されていたようです。これらは、だいたいは反社会主義の立場やマルクス主義を標榜しながらも日本共産党とは異なる立場のいくつかの党派から提起されていました。近年、特にソ連崩壊後には、かつてマルクス・レーニン主義を掲げ「本流」と見なされていた立場の人からも「ソ連=国家資本主義」論が展開されるようになっています。したがって、「ソ連=国家資本主義」論にはさまざまなヴァリアントがあり、その立場も一様ではないようです。
 近年出版されたものとしては『ソ連の社会主義とは何だったか』(大月書店1996年刊)があります。この著作はサブタイトルが「ソ連の社会システムは、『国家資本主義』と呼ばれるにふさわしい資本主義のそれであった」となっています。これは、必ずしも政治的立場が共通しているとは思えない8人の共同執筆になるものですが、これらの筆者の立場はほぼ共通してサブタイトルに示されるものであったと考えていいでしょう
。  あまり聞き慣れない国家資本主義という語句について『社会科学事典』のいささか古い版から引用します。

 資本主義国家のばあいとプロレタリア国家のばあいとは、国家資本主義の役割はまったくことなる。(中略)資本主義から社会主義への過渡期にあらわれる国家資本主義は、社会主義建設のためにプロレタリア国家が利用する経済制度であり、私的資本主義の自然発生性を克服し、その利用・制限をつうじてそれを社会主義的に改造する道である。(『社会科学事典』新日本出版社1969年第7版98頁※このときからすでに編集委員の氏名は掲載されていない。)

 私はこの規定は今日でも基本的には有効だろうと思っています。国家資本主義という言葉はレーニン自身が使用した言葉です。戦時共産主義からネップへと移行する端緒となった政策――割当徴発から現物税に代える食糧政策の変更――が導入されるにあたって、レーニンは「食糧税について」(全集第32巻354頁~)の中で新政策の意義と諸条件について述べています。レーニンは、ロシアに現存するいろいろな社会=経済制度の諸要素を以下のような5点にまとめて列挙しています。
(1) 家父長的な、すなわち、いちじるしい程度に現物的な農民経済
(2) 小商品生産(穀物を売る農民の大多数はこれに入る)
(3) 私経営的資本主義
(4) 国家資本主義
(5) 社会主義
 レーニンによれば、当時のロシアが直面したのは(4)と(5)の間ではなく、「小ブルジョアジー・プラス・私経営的資本主義」が「国家資本主義とも社会主義とも」闘争している、という段階でした。また、「ロシアではまさに小ブルジョア的な資本主義が優勢であるが、それからは、大規模な国家資本主義へも、また社会主義へも、同一の道が通じているのであり、『物資の生産と分配に対する全人民的な記帳と統制』と呼ばれる同一の中間駅を経由して道が通じているのである。」(全集第32巻361頁)として、社会主義への一里塚として国家資本主義の意義を説いています。この文献を読むと、当時、党内で「新政策」(ネップ)についての「左翼的な」抵抗がかなりあったことが想像されます。この点について、レーニンはプロレタリアートがその手にかたく権力をにぎっているかぎり恐れることはない、としています。したがって、レーニンのいうところの国家資本主義は、通常われわれが理解するところの資本主義ではなく、ましてや発展途上国にしばしばみられるような「開発独裁型の国家資本主義」とも本質的に異なるものであったと私は思います。この意味で、私は『ソ連の社会主義とは何だったか』のサブタイトル「ソ連の社会システムは、『国家資本主義』と呼ばれるにふさわしい資本主義のそれであった」に同意することはできません。

 ロシア革命は社会主義の物質的諸条件を用意するほど資本主義が発達していない段階で行われ、「発達した高度な生産力という物質的前提なしには、資本主義的生産の止揚はありえない」(『ソ連の社会主義とは何だったか』12頁)という視点が強調されています。これを歴史に即して考えてみようと思います。
 『ソ連史概説』(窓社1999年刊・上島武著)の第3講、第4講をみると、このあたりの事情がよくわかります。数字は同書(55頁)からの孫引きになり恐縮ですが、工業はペトログラード、モスクワやいくつかの都市に点在して発達していた程度であり、都市人口は全人口の約15%未満、工業によって生計を立ている人は10%未満でした。ロシア革命が膨大な貧農と同盟することなくして成功しなかった理由はここにあります。
 第1次世界大戦が進行する中でロシア社会が危機に瀕してなお、地主も貴族もブルジョアジーも、あるいは帝政政府も臨時政府もといってもよいが、彼らにとって絶望的な敗北を意味する停戦を実現することができなかったという状況で、社会の指導的階級として登場した労働者階級にこの任務がゆだねられたというべきであり、これ以外に破局を救う道はなかったというべきでしょう。そして、すでに社会主義をめざす運動が現実に闘われた世界史の発展段階において、プロレタリアートが権力を獲得した以上、社会主義をめざして前進したのは当然のことであり、政治的な発展段階と経済的な発展段階とが必ずしも「照応」しないことはレーニン自身も強調しているところです。(全集第32巻365頁)
 この歴史を考えれば、当時のロシア革命の性格規定をすることにそれほどの意味があるとは思えません。そして、70余年の後にソ連が崩壊した事実も、ロシア革命の意義をいささかも低めるものではありません。
 資本主義的生産が極めてわずかしか発達していないことは何を意味したか、を資本の面と生産技術等の面から考えてみます。
 先進工業国から発展途上国に資本が投下され進んだ技術が導入されれば、生産が飛躍的に上昇し、その社会は急速に発展していくという事実がNIES諸国の経験から明らかになっています。物質的諸条件の問題は、いわば資本の本源的蓄積と生産技術等(生産諸力)の2つの問題としてとらえることができます。
 ロシアはもともと遅れた農業国であった上に、革命直後のソ連社会は、第1次世界大戦、革命後の内戦、帝国主義列強の干渉によって疲労困憊の極にありました。くわえて、革命直後には、土地を貧農に分け与えるという施策をとることによって、農業における大量の小商品生産を結果的に育成することとなりました。社会主義建設=大工業の発展と農業の集団化を進めていかなければならなかったのですが、大工業そのものがこのような状態でしたから、大工業を発達させ生産性の高い農業機械等の工業製品を農民に供給し、大経営の優先性を示すことによって、農業の社会主義化を進めるというもっとも理想的な道を選択することができるような状況ではなくなっていました。
 先に述べた「食糧税」は、大量の資本と時間を必要とする大工業の復興・発展は、すぐにはできないことを認識し、大した機械もいらず、原料や燃料もそれほど大量には必要としない小工業を発展させ、農民経済を復興させることによって大工業を発展させようとするレーニンの路線上で出てきたものです。割当徴発の半分ほどの現物税にすることによって作付け面積の拡大などを通じて収穫の増大を期待したものでした。
 資本主義であろうが社会主義であろうが、生産を発展させるためには「もとで」としての資本が必要です。資本主義は、私見ですが、外国からの様々な形態での収奪によって原資本の大部分を蓄積しました。これに対して、革命後のソ連では当然このような方法に頼ることができず、国内で資本の本源的蓄積を行う以外には道はありませんでした。革命前のロシアの主要な輸出品目が穀物などの農産物であったことからも推察されるように、おもな産業は農業でしたから、その本源をまずは農民に、そして、その後は労働者にも求めるより他にありませんでした。この点については、スターリンがやろうが誰がやろうが他に方法はなかったでしょう。ただし、1930年代の前半に行われた農業の強制的集団化――農民を強制的に集団農場に移住させたスターリン流の強権的なやり方しかなかったかどうかは別の問題です。特に、ネップにおけるレーニンの考え方を見ると両者の間にはかなり異質のものがあったように感じられてなりません。スターリンの強制的農業集団化は、一方で農業生産の減退を招き、他方で、穀物の国家調達量だけは増大するという2つの結果(『ソ連史概説』83頁参照)をもたらしました。両方を増大させるという可能性が少なくとも理論上はあったということになります。また、これらの方法は国家権力を背景としたものであり、民衆自身がみずからの事業として参加していたとはいいがたいものでした。このときにすでに、ソビエト民主主義、プロレタリアートの独裁の健全さが大きく損なわれつつあった、といえるでしょう。
 進んだ技術はヨーロッパやアメリカから輸入する他はありませんでした。レーニン生前のネップの時代には、油田などの利権を部分的に外国資本に売り渡すことによって、その後は、「飢餓輸出」に近いような形で農産物を輸出することによって、進んだ技術、生産設備を輸入しなければなりませんでした。
 ロシア革命当時の労働者は、工業労働者、鉄道労働者、坑夫といったいわゆる古典的な労働者であり、それだけ革命性の強い人たちでしたが、当時のロシア社会の制約から全体としては文化水準が低いのが実態でした。国民の識字率は19世紀末には都市で56.6%、農村では23.8%でした。(『ソ連史概説』57頁参照)
 こうした状況では、直接生産にたずさわる労働者自身には生産管理の能力がそなわっておらず、旧社会における官僚などの支配層の力に依拠せざるをえないものがあり、個々の生産現場で行われるべきことまで国家機関が行うことになりました。ノーメンクラツーラの発生する一つの根源がここにあります。

 ソ連における初期の社会主義建設は、革命直後の混乱、内戦期の戦時共産主義といわれる国家権力による強権的な命令によって共産主義を建設しようとする路線から、1921年以降のネップへと移行しましたが、1924年のレーニン没後、おもにスターリンの指導のもとに行われました。この投稿は、レーニンやスターリン評価を試みたものではありませんし、スターリン全集は私自身は手許にないこともあって、本来ならばきちんと区別する必要があるのでしょうが、それをやっていません。
 あまりまとまったものになっていませんが、最近、投稿が少ないのでとりあえず投稿することとしました。次回は、その後のソ連社会は社会主義といえるようなものではなかったか、ということについて考えてみようと思います。