レス投稿をいただきましてありがとうございます。最初にタイトルと投稿者名を見たときには浩二さんからの投稿だったので、とうとう私も浩二さんから批判され反論をしなければならないハメになったかと思いました。ところが案に相違して同感のレスでしたので、少々安心しましたが、これに対するレスはそれほど簡単ではありません。可能であれば浩二さんの質問に対して私なりにまとめたものを投稿したいと思いますが、それができなければ引き続き行うつもりの投稿の中で触れたいと思います。
その内容には賛同できませんが、「ソ連=国家資本主義論」はそれなりに意義のあるものだと私は思っています。それは、従来の(私も含めて)多くの人たちが信じていた「ソ連=社会主義論」の盲点をつくものでした。これまで私(たち)は、「私的所有が廃絶され国有化された」、「計画経済が行われた」ということや、「資本家が存在しない」、「共産党が支配政党であった」ことなどから、これが社会主義だとほぼ無条件に肯定していました。こういう立場に固執していると、ソ連が存在していた時代の、単なる政策的な間違いとするにはあまりにもひどい「否定的現象」を合理的に説明できませんし、何よりもソ連崩壊を納得できるように説明することができません。1つの社会構成体が新しい社会へと発展したとすれば、その社会は二度と古い社会へ戻ることはありません。具体的にいえば、現在の資本主義社会が封建社会へ戻ることがありえないように。
私たちの目の前で展開されたソ連崩壊は一時的な逆行現象であるかもしれないし、ロシアがこのまま資本主義へと移行するとも考えにくいのですが、ともあれ、ソ連崩壊は歴史的な事実ですから、ソ連が社会主義であったと認めても、社会主義への移行は「不可逆的な」ものではなかったわけですから、そういう意味では「本来の」というか、「完全な」というか、そういう社会主義ではなかったこと認めなければなりません。
ソ連社会主義は「本質的な」ともいうべき「欠陥」をともなった社会主義だったかもしれません。具体的な社会主義は、その実験から総括して抽象されるべきだというのが私の立場ですが、これを行うにあたってはマルクス主義の創始者たちによる未来社会への洞察は重要なカギになるでしょうから、そこから学ぶべきところは大きいと思います。吉野さんの投稿「個人的所有の再建」命題などもその1つでしょう。たとえば、「私的所有の廃絶」――ソ連における「国有化」など――がただちに「社会的所有」を意味するのか、あるいは国有化以外に「社会的所有」の具体的形態があるのかといった問題を考えるとき、そこに「個人的所有の再建」がどのように現象しているかという問いかけは非常に有効です。かつてソ連社会では、「企業の管理者は労働者を働かせたふりをし」、「労働者は働いたふりをする」といわれたらしいのですが、ここには労働者は生産手段を占有使用するが、その「所有者」としては機能していなかったといわざるをえない実態があります。であれば、社会的所有を確立するためには、「私的所有の廃絶」あるいは「プロレタリア国家における国有化」以外にどのようなモメントが必要かを具体的に考えなければ、21世紀にあるいは到来するかもしれない社会主義を用意することはできないでしょう。だから、私は浩二さんの<「個人的所有の再建」命題について(7)について追加>の中の「耐久財はマルクスの時代、資本主義世界に普及していなかったという吉野傍さんの議論は不毛である…」を含めて、吉野さんの論旨が不毛であるとは思いません。個人的にはこれらの吉野さんの一連の投稿はたいへん参考になりました。引き続き吉野さんに今まで通り貴重な投稿を続けていただきたいと私は思います。