昨年だったか、この掲示板にて「科学的社会主義」という概念の不毛さについて提起させていただいた者です。その後、当方の思惑どおりに進まない議論に嫌気がさし、何時の間にか発言を遠慮しておりました。それでもときどきは拝見してましたが、この掲示板はほかに比べて「開店休業」状態のようで、やはり理論的な面への関心は一般に低いのか、といささか失望しております。実は、先日「さざなみ通信」5月号を拝読し、この間どうもおか しいと感じてきた点の整理が出来たように思われますので、改めて自分の意見を申し述べたいと存じます。以下、ややキツイ表現を取っておりますが、私としては当編集部の皆さんの、党や日本社会をより良くしようとの意図でこのHPを開設・運営されている、その誠意自体は疑うものではありません。可能ならこのまま全文を掲載されんことを願っております。
柔軟路線という表現が適切なのかどうか、は知りませんが、ここ数年の連立政権時代にあたり、従来に比して党中央が柔軟な路線を目指していることは事実でしょう。しかし、一般的な評価はと言えば「ただの偽装である、何故かと言うと綱領が変わってないから」という点に尽きましょう。綱領も変わらず、党の組織実態の非民主性にも変化がない以上、いくら「柔軟」ぶりを示しても、普通に批判精神をもっている人間にはなかなか受け入れられないはずです。
一方、当「さざ波通信」編集部は、党の官僚的な組織実態を批判し、民主的な運営とシステムを要求しているように感じられます。その点は、中央よりは好感がもてるのですが、何故か理念(情勢の分析や、党としての路線、他党派批判など)については、中央よりも教条に徹する古さを固持しているように感じられます。私の個人的な意見では、党が目指している(らしき?)漸進主義・改良主義という路線は、それが正しく実態を伴いさえすれば、党
の大きな改革・改善にもなり、果ては日本社会の改革に貢献することになると信じられます。ところが、当編集部による中央批判は組織実態の官僚性批判を別とすれば、理念の面では、中央の漸進主義・改良主義路線に反対する旧来の階級闘争理論に代表される教条のもののようです。これには驚きを隠せません。どうしてこのような中央「批判」しか共産党には存在しないのでしょうか?
そもそも、当編集部は、党内における自由な言論を訴えているようです。しかし、それは本当に心からの訴えなのでしょうか? 何故かと言うと、多元主義を真実理解しての自由な言論の提起であるなら、それは果てしなき改革-綱領の変更、「共産主義」路線の放棄、マルクス主義を党の理念のワン・オブ・ゼムにすること、など、最終的には党名の変更へと到る可能性を秘めています。逆に言うなら、そうした方向へと党を改革していく手段として、
党内民主主義の確立が望ましく、だからこその訴えであるべきなのです。オープンな議論の提唱自体はけっこうなことです。しかし、その結果、自分(たち)の意図するものとは異なるものとなっても許容できるのか? そこを疑問に感じざるを得ません。つまり、ただ反中央のために一時的な方便として、主張しているのではないのか? という疑いを禁じえないのです。というのも、「さざ波通信」が理念的に多元主義を志向しているとはとうてい思えない表現が随所に出てくるからです。
たとえば、
最近、『毎日新聞』で、再び共産党の政権入りの可能性について論じた記事が出ていたが、その中で志位書記局長は、民主党の羽田孜幹事長との関係について「一緒に戦う中で、人間的な信頼関係もできつつある」とさえ述べている(5月10日付)。元自民党田中派出身で、最右翼政党であった新進党の元党首で、小選挙区制を推進し、日本政治の帝国主義的転換を主導した一人である反動政治家と「人間的信頼関係」を語るとは、驚きを通り越して、あきれるしかない。
羽田氏は、あなた方にとって「打倒の対象」でしかないのですか? 「反動政治家」は、その存在さえも許さない? ではどうしますか、強制収容所にでも入れますか? 私はこの場合、志位書記局長の主張のほうがよほど現実政治家のものとして評価できるように感じました。それに比して、この筆者のセンスは、大昔のスターリン時代のそれと大差なく、いまの日本にこんな考えをもっている人物が居ること自体、大変恐ろしく感じました。
私は党中央の柔軟姿勢自体はそれなりに評価します。しかし、それを党組織論自体や、状況分析、その根本にある世界観や哲学にまで及ぶようにすべきである、という主張です。具体的には、選挙に際しても、選挙後でなく、他党派との選挙前共闘を政策のすり合わせをもとに遂行すべきでしょう。
それにはイタリアの「オリーブの木」戦略が大変参考になると思われます。いまの状態では、自公保の体制側が右翼的「オリーブの木」を志向し、先んじています。民主党の足を引っ張り、自公保を結果として助けないような斬新な発想にどうして立てないのでしょう?
そして、もちろん綱領を変更しなければいけません。「マルクス・レーニン主義」の教条から自らを解き放ち、英国経験論・米国プラグマティズムに学び、反米主義・反西洋的文明観から脱却し、自由と民主主義・人権の側に立つことです。これらは、イタリア共産党が左翼民主党へと「大転換」した経緯や、ドイツ社会民主党の歴史が大いに参考になりましょう。私の見方は、党中央がいままでのところ、表面的な「柔軟」さにも関わらず、こうした本質的な転換を遂げてはおらず、そうしたところまで踏み切れないからダメだと言っているのであって、「さざ波通信」の「批判」(柔軟路線そのものの拒否)とはおそらく対極にあります。
党中央批判が中央より更に教条的なセンスをもった人びとからしか出てこない。この悲惨な状況では、日本共産党の改革への道は遥かに遠いと言
わざるを得ません。