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「科学的社会主義」討論欄

党内民主主義が方便であるのは誰か?>カワセンさんへ

2000/5/29 吉野傍、30代

 5月26日付のカワセンさんの投稿に異論があるので投稿させていただきます。
 カワセンさんの立場と編集部との立場が、カワセンさんの言う通り「対極」にあるというのはその通りでしょう。それは、両者の主張や、カワセンさんが自分のホームページで表明されている意見を読めば誰にでもわかります。カワセンさんは、左翼民主党的立場から現在の不破指導部を積極的に評価し、その方向性をもっと徹底せよと主張する。編集部は、現在の不破路線は右翼日和見主義であり、その右翼日和見主義が党内の官僚主義と結びついていると主張する。カワセンさんは右から共産党を引っ張り、編集部は左から共産党を引っ張ろうとする。まさに、「対極」にあります。
 そのことにはとくに驚くべきことはありません。問題は、カワセンさんが、編集部に対して、その党内民主主義の主張、あるいはその官僚主義批判の主張が反中央のための単なる「方便」にすぎないとしている点です。なぜそうなのか、その理由はきわめて奇妙です。カワセンさんはあらかじめ、党内民主主義の主張は、綱領の改変、党名の変更、共産主義の放棄、といった特定の方向を目指すために必要なものであると決めつけ、編集部がそのような方向性を目指していないから「方便だ」というわけです。これはきわめて牽強付会な議論ではありますまいか?
 編集部がどこかで書いているように、党内民主主義はそれ自体が自己目的ではなく、党としての何らかの政策や決定を実現するための手段です。右派は、共産党の路線をもっと右寄りにしようとしてその民主主義を利用するし、左派は、共産党の政策をもっと左寄りにしようとしてその民主主義を利用します。党内民主主義の実現は、右派に対しても左派に対しても、平等にその政策を実現する可能性を与えます。党内民主主義の実現によって、党の全体としての路線がより右翼的になることもあれば、より左翼的なものになることもある。その帰趨はまさに党内での闘いによって決せされます。カワセンさんは、「その結果、自分(たち)の意図するものとは異なるものとなっても許容できるのか」と編集部に問いかけていますが、まったく同じ問いは、もっと右寄りの路線を望む人たちに対しても向けることができるはずです。党内民主主義を実現した結果として、カワセンさんの表現に従えば「より教条的」になる可能性をも秘めています。その場合に、右寄りの路線を望む人はそれを許容できるのでしょうか? もしできないとしたら、その時には、結局、右寄りの路線を望む人が言う「党内民主主義」要求なるものは単なる「方便」にすぎないということになりますね。
 実際には、現在の党において進行しているのは、まさに、党内民主主義を無視した形でのとめどない右傾化です。カワセンさんのような人々は、一方では「党内民主主義」の必要性を説きながら、実際に、共産党が党内民主主義を蹂躪して国旗・国歌の法制化をぶち上げたり、民主党との連合路線を打ち出したりしているというのに、その決定過程における非民主主義性をまったく糾弾しようとしません。党の「現実主義化」を望む人々は、その「現実主義化」がたとえ非民主的で独裁的・官僚的方法で達成されても、それに異論を唱えず、「結果よければすべてよし」と言わんばかりに支持するのです。何というシニシズムでしょう。
 実際に「党内民主主義」の主張が「方便」でしかないのは、今現在、党のいっそうの右傾化を望み、それを支持している人々なのではないですか?