カワセンさんよりいくつかの批判がなされていますので、それにお答えしたいと思います。
まず、私たちの党内民主主義の主張が「反中央のために一時的な方便として、主張している」としている点についてです。なぜ私たちが党内民主主義が必要であると考えるのかについてその理由を何点かにわたって提示することで、そうした批判への回答にしたいと思います。
まず第一に、最も根本的な問題として、党内民主主義は、党が目標としている社会主義、共産主義の未来にとって絶対に必要なものだからです。よく「目的は手段を正当化する」と言われますが、これは、「目的はどんな手段でも正当化する」という意味にとるべきではありません。ある一定の目的は常に手段に対しある一定の限定を加えるのです。本来の意味での社会主義、共産主義とは、人民の最も高度な自治社会、自主管理社会を意味します。単に、きわめて制限された「政治」の分野においてだけでなく、生活にとって根幹をなす生産と分配と消費の分野においても、民衆の民主的・自治的・集団的な管理と運営に委ねるのが社会主義です。しかしながら、そのような社会は、出来合いのものとして空から降ってくるわけではありません。それは何よりも、その実現の過程で、そうした社会を実現するにふさわしい人格的陶冶と政治的訓練がなされていなければなりません。とすれば、社会主義をめざす党派の中で、そのような自治と民主主義の訓練がなされなければならないのは、まったくの必然です。個々の党員が自分で主体的に考えようとせず、指導部の決定に黙って従うような習慣が支配しているとすれば、そのような党派がたとえ革命に成功したとしても、それによって実現される社会は、社会主義とはおよそ縁遠いものになってしまうでしょう。したがって、党内民主主義は、社会主義をめざす党派にとってその存在理由そのものにかかわる根本的な前提条件なのです。
第二に、党内民主主義は、党内において真に党員の英知を結集し、正しい路線や政策を確定し、それにもとづいた真に生き生きとした戦闘的活動を実践する上で必要不可欠な手段だということです。指導部に事実上決定権が独占され、どのような方針が決定されても、それに党員が唯々諾々としたがっているかぎり、何らかの重大な誤りが犯されたときに、それを是正する手段が存在しないことになります。人間は過ちを犯す動物であり、それは最も偉大で最も優れた指導部であっても同じです。そして、幸か不幸か、わが党の指導部はそれほど優秀でもなければ、それほど偉大でもないのです。そしてさらに不幸なことは、党内民主主義が欠如しているもとで、党指導部は過ちを犯さないという一種の無謬神話が成立してしまっていることです。このような神話がいったん成立すると、指導部自身が自らの誤りに気づいたときでさえそれを公然と認めることができず、それを言いつくろい、ごまかし、あるいは、誤っていてもそれを強引に推し進めたりします。そのような状況は、党に重大な打撃を与えるだけでなく、党員を志気阻喪させ、混乱させます。また、十分に民主的な討論もなしに上から降りてきただけの決定を真に確信を持って実践することはできないでしょう。そのような状態が続けば必然的に活動は停滞し、行き詰まることになります。
第三に、すでに一定の民主主義的規範が存在する先進資本主義国においてはとくにそうですが、党内民主主義の欠如は、支持者や一般民衆からの不信をつのらせ、党に対する理性的な信頼(盲目的な信頼ではなく)を掘り崩します。そして、第一のことと深く関連しますが、社会主義とは結局、全社会的規模での自治社会、自主管理社会なのですから、このような一般的不信の広がりは、社会主義の大義そのものを掘り崩し、現在の支配階級による愚民政策を左から支えることになるでしょう。
以上のことから明らかなのは、私たちの「党内民主主義」要求が、その方が選挙で票を多く取ることができるというような「目先の利益」から出されているのではなく、あるいは、反中央のための「一時的方便」でもなく、また単なるブルジョア民主主義的「手続き論」としてでもなく、もっと根本的で、根源的な配慮から発していることです。
次に、カワセンさんは、党内民主主義の確立の結果として、「綱領の変更、『共産主義』路線の放棄、マルクス主義を党の理念のワン・オブ・ゼムにすること、など、最終的には党名の変更へと到る」場合にも、それを許容できるのか、と問うています。カワセンさんが言う「綱領の変更」の内容が明らかではありませんが、綱領自体、これまで何度となく変更されているわけですから、何らかの変更が党内民主主義の結果として実現される可能性はまったく排除されていません。それどころか私たちは、個々の点で綱領の変更が必要であるとさえ考えています。しかし、おそらく、カワセンさんが想定している「綱領の変更」とは、そのような部分的な変更のことではなく、社会主義、共産主義を目指すという共産党の根幹そのものを否定する変更であるようです。もしそうだとすれば、そのような「綱領の変更」(というよりも「綱領の廃棄」)は、党内民主主義の限界を越えていると言わざるをえません。
党内民主主義とは、書いて字のごとく、「党」内の民主主義です。そしてその党とはあくまでも、「共産党」であって、「社会民主党」でもなければ、「民主党」でも、「左翼民主党」でも、「自民党」でもありません。したがって、共産主義、社会主義を目指すという共産党の根幹を否定することは、「党内民主主義」の論理からして、最初から排除されます。なぜなら、それはもはや「共産党の改革」という域を完全に越えており、共産党そのものの否定を意味するからです。現在の共産党があるのは、それが社会主義、共産主義を目指すことを前提にして無償の活動に従事し、多くのカンパや党費で支えてきた無数の党員と党支持者のおかげです。一時的な多数派分派が、多数決の原理で、社会主義、共産主義という目標そのものの放棄を強行することは、まさにそのような血と汗と涙の結晶を不法に簒奪する行為です。
こうした行為が原理的に許されないのは何も政党にかぎったことではありません。たとえば、野球場を作りますと言って資金を集め、ボランティアの労働力を集めながら、途中で方針を変更して競輪場を作るようなものです。どのような野球場を作るべきかをめぐって大いに議論を闘わせるべきでしょうが、野球場をつくることをそもそも否定して、別のものを作ることは倫理的に許されません。それは法的には一種の詐欺行為であり、労力と資金の簒奪です。そのような場合にはもちろん、資金と労働力を提供した人々は提訴して、簒奪者から賠償金を勝ち取るべきでしょう。
次にカワセンさんは、前号の『さざ波通信』にある次のような一節を引用しています。
「最近、『毎日新聞』で、再び共産党の政権入りの可能性について論じた記事が出ていたが、その中で志位書記局長は、民主党の羽田孜幹事長との関係について『一緒に戦う中で、人間的な信頼関係もできつつある』とさえ述べている(5月10日付)。元自民党田中派出身で、最右翼政党であった新進党の元党首で、小選挙区制を推進し、日本政治の帝国主義的転換を主導した一人である反動政治家と『人間的信頼関係』を語るとは、驚きを通り越して、あきれるしかない」。
この引用文に対してカワセンさんは次のような批判をしています。
「羽田氏は、あなた方にとって『打倒の対象』でしかないのですか? 『反動政治家』は、その存在さえも許さない? ではどうしますか、強制収容所にでも入れますか? 私はこの場合、志位書記局長の主張のほうがよほど現実政治家のものとして評価できるように感じました。それに比して、この筆者のセンスは、大昔のスターリン時代のそれと大差なく、いまの日本にこんな考えをもっている人物が居ること自体、大変恐ろしく感じました」。
このような強引な議論にこそ、私たちは大変恐ろしさを感じます。私たちの引用文のどこに「反動政治家はその存在も許さない」とか「強制収容所にでも入れる」などと書いてあるのでしょう。私たちが書いているのは、共産党の書記局長ともあろう人が、旧田中派で元新進党の党首で小選挙区制導入に尽力し一貫して反動的政策を持ちつづけている政治家と「人間的な信頼関係」を云々していることへの批判だけです。カワセンさんの議論によるなら、「人間的信頼関係」を築けない相手はすべからく「その存在も許さない」「強制収容所に入れる」対象だということになるのでしょうか? いったいどこからそのような飛躍が出てくるのでしょう?
たとえ共産党の指導者でなくても、そもそも一つの大政党の指導者であるなら、安直に他の政党の指導者に対する「人間的信頼関係」を云々するのは危険であり、こう言ってよければ、あまりにも無邪気です。羽田孜氏自身が、共産党の指導者にかけらの「人間的信頼」も持っていないことを考えるなら、なおさらです。そのような無邪気な政治家は、魑魅魍魎の跋扈する国家政治の世界に足を踏み入れるべきではありません。ましてや、階級的憎悪に取り囲まれて仕事をしなければならない共産党の指導者や国会議員になるべきではありません。
反動政治家と馴れ合わず、ましてや「人間的信頼関係」などというおためごかしを言わず、きちんと一線を画し、そのうえで論戦を闘わせ――必要ならば――交渉すること、このことは何ら「多元主義」を否定するものではありません。それとも「多元主義」とは、相手が誰であれ(反動政治家だろうが、ファシストだろうが)、仲良くし、馴れ合い、「人間的信頼関係」などという歯の浮くお追従をすることだと、カワセンさんは考えているのでしょうか?
最後にカワセンさんは次のように述べています。
「党中央批判が中央より更に教条的なセンスをもった人びとからしか出てこない。この悲惨な状況では、日本共産党の改革への道は遥かに遠いと言わざるを得ません」。
このような心配は残念ながらまったく無用です。私たちは幸か不幸か党内では圧倒的な少数派です。だからこそ私たちは、自分たちのホームページに『さざ波通信』というささやかな題名をつけたのです。そして現在の社会状況は、私たちの言う方向ではなく、ますますカワセンさんの望む方向へと党を押しやるのにまったく好都合なものです。共産党を右傾化させる社会的・政治的圧力は私たちの微々たる抵抗よりも何万倍も強いものです。党指導部に批判の声を上げるのが私たちのような「教条主義」党員しかいない理由は単純です。カワセンさんの言う路線を潜在的に支持している党員たちは、現在の不破指導部の路線を安心して見守っているのです。不破-志位指導部が、現在の右傾化路線を自信を持って遂行しているのも、このような「支持」を敏感に感じとっているからでしょう。
それだけにいっそう私たちは、大きな声で、今の路線に対する異議申立てをしなければならないのです。私たちが数の上では圧倒的に少数であるだけになおさら大きな声で、倦まずたゆまず、粘りつよく、あきらめず、根気よく、批判の声を挙げなければなりません。
かつて社会党は、現在共産党に向けられているような「現実主義的になれ!」というアドバイスにしたがった結果、あっと言う間に少数政党に転落し、その結果――小選挙区制の効果もあいまって――、保守政党の議席占有率を著しく高め、意味のある政権交代を著しく困難にしました。社会党の崩壊にまんまと成功した右派勢力は、次にはその矛先を共産党に向けています。手段は同じく、「もっと現実主義的になれ」「おまえらの教条主義のせいで政権交替ができないのだぞ」「このままだとジリ貧だぞ」「現実主義的になったらもっと得票が増えるぞ」「政権にも参加できるぞ」という「善意」のアドバイスを執拗に繰り返すことです。社会党の崩壊を目の前で見たはずの不破指導部は、そこから何の教訓も導き出さず、自分たちの選挙での躍進に目がくらみ、そして長年にわたる反動化の波に地道に抵抗する気力を失い、これらの「甘美な」アドバイスに身を委ねようとしています。
もしこの策動が成功したらどうなるでしょうか? 共産党は社会党と同じく最終的に崩壊し、国会には、現存秩序を基本的にすべて受け入れる保守政党ないし半保守政党だけしか残らなくなり、保守の支配的枠組み内部での部分的改革ないし改悪だけが「現実的」選択肢となる荒涼たる政治空間が成立することになるでしょう。
こうした悲惨な結果を許さないためにも、現在の指導部の右傾化路線に多少とも疑問を持っているすべての党員は声を大にして、異議を唱えなければならないのです。