まず、私が自分のホームページをもっていることは事実ですが、そのホームページについてここで紹介した覚えはありません。ここではハンドルで、ホームページでは実名を使ってますから、私自身が言及していないホームページでの主張を、ここでの見解と絡めてうんぬんするのはやめていただきたい。どのようにして私のホームページを知ったのかは分かりませんが、プライバシー侵害に当たる可能性が濃いので、今後この場でのホームページうんぬんはやらないでいただきたい。以上、強く要望しておきます。
さて、以前からあなたの主張には決まり切った図式からの裁断が多すぎるように感じておりましたが、今回もそれだけのようです。そもそも、「右」が悪くて、「左」が正しい、などといったい誰がいつ決めたのでしょうか? 政治的場面での「右翼・左翼」の分類は、フランス革命の際、国民議会の議席配列においてジャコバン派が左翼を占め、ジロンド派が右翼を占めたことに由来すると言われております。これは一定の時代や国における相対的なものであり、絶対的なものではありません。
また、「日和見」ということに関しても通俗的なマイナスイメージでだけ言われてますが、これにも少数ながら異論が存在しているようです(先ごろ亡くなった民俗学者宮田登氏の『日和見 日本王権論の試み』(平凡社・1992年)あとがきで紹介されている、ジョージ・ハリファックス『日和見主義者とは何か』(未来社・1986年))。固定した教条でもって、いくら「反論」されても、当方としてはその教条を一度疑ってみては? と提起しているのであって、これでは議論になりません。ただし、いくつか感じた点もありますので、少しだけ触れておきます。なお、吉野傍さんへは、今後「現状分析と対抗戦略」討論欄でも改めて反論を行なう所存です。
私の前回の提起が「牽強付会な議論」だったことは、ある意味ではそのとおりです。それは状況が極めてねじれており、うまく整理が出来なかったからです。確かにここの編集部による「党内民主主義の提起」という主張自体は支持できる、しかしほかの主張はと言えば、党中央よりもさらに教条的であるようにさえ見える。一方、相対的には民主的な世界観・価値観を志向しているかに見える党中央のほうはと言えば、党内民主主義という点ではほど遠い状態にある。ただ、今回の「反論」で少し分かったことは、やはり民主主義の理解にそうとうの溝がある、ということです。吉野傍さんは「党内民主主義はそれ自体が自己目的ではな」い、と書かれてますが、これは間違いです。民主主義こそがいついかなるときでも、(ただの手段でなく)「それ自体が目的」でもなければなりません。そのような民主主義観に立つなら、「党内民主主義を実現した結果として、カワセンさんの表現に従えば『より教条的』になる可能性」など、絶対にあり得ないことになりましょう。
「決定過程における非民主主義性」と言われる。しかし、それがシステムとしてそうなのか、あるいは別の問題が介在しているのか、は党外の人間にはわかりません。党員多数の質的な限界によって、中央の政策「決定過程における非民主主義性」が支えられている可能性が高いのではないか、それなら、まず個々の党員の質を高めることが先決ではないか、そのような感じを強く受けます。それはもちろん、綱領的な価値観・世界観を一度疑い、そこから脱することで初めて可能となりましょう。現今の党の「非民主主義性」を支えている責任は、必ずしも党中央にだけ帰すことが出来ないものであり、綱領を疑うことのない党員及び党支持者にも、その責任はあるのではないか。これが吉野傍さんの「反論」を読んだ、私の一応の結論です。