吉野傍さんからは、「牽強付会な議論」と言われてしまいましたが、それは氏へのレスにも書いたとおり、状況がねじれていて、なかなかうまい整理がつけられなかったからです。前回書いた「私としては当編集部の皆さんの、党や日本社会をより良くしようとの意図でこのHPを開設・運営されている、その誠意自体は疑うものではありません」との想いに変わりはありませんので、お組み取りいただければ幸いです。
長文のレスをいただき、感謝しております。将来の社会主義像については、おおよそ共感できます。その「実現の過程で、そうした社会を実現するにふさわしい人格的陶冶と政治的訓練がなされ」る必要とか、「社会主義をめざす党派の中で、そのような自治と民主主義の訓練がなされなければならない」といった見解は、旧来の党の発想とは異なるものであり、うれしく感じます。また、「人間は過ちを犯す動物」というのも、教条的「マルクス主義」(あくまでも、括弧つきですが)の理論では出てこない、プラグマティズムで言う可謬性ということで、これまたうれしい驚きでした。しかしながら、それだけ旧来の「マルクス主義」を部分的に相対化できていながら、どうして「社会主義、共産主義を目指すという共産党の根幹そのもの」を相対化するところまでは行かないのか、が理解できません。
S・Tさんは、「党内民主主義とは、書いて字のごとく、『党』内の民主主義です」と驚くべきことを書かれてます。党内の民主主義と党外の民主主義と、2つの民主主義があるのでしょうか? 共産党の存在は疑ってもかからない前提においての「民主主義」。それはほんとうの民主主義ではないでしょう。自民党には自民党の、民主党には民主党の、「党内民主主義」がある。党と党の間も民主主義で結ばれている。党の外にも民主主義は広がっているのです。「民主主義」度を基準として、党を評価すること。もちろん、民主主義だけが、その党の価値を決める訳ではありませんが、必要な要素であることは間違いないでしょう。
野球場と競輪場の例で言われてますが、その例に倣うと、そもそも建設の目的はその地域をよくするためだったはずです。ある理論によって、その地域では野球場をつくることが地域住民に幸福をもたらすことが分かった。その設計図や建築方法も書いてあった。別の地域では、必ずしも住民多数が支持した訳ではなかったが、古い建物を壊し、やや強引に野球場を建設したものの、数十年後にはうまく行かなくなってつぶれてしまった。そうした「他山の石」があるのに、「地域が違うから」「建築方法はこちらが上だから」野球場で大丈夫と固執している。それがいまのあなたがたの姿ではないのでしょうか? 地域の住民が野球場を望まないなら、押しつけるべきではありません。また、そのことを理解する人たちが党内で増えて、やがて「競輪場のほうがいい」という意見が党内多数のものになり、それが地域住民多数の意見でもあることが分かったら、その時点で競輪場建築へと発想を切り替えるべきではないでしょうか? それは決して「詐欺行為」でも「労力と資金の簒奪」でもありません。正しく、生産的な方向転換です。それでもなお、自分(たち)は野球場建築をしたいんだ、と言うなら、新たにそうした党をつくって、競輪場建築を目指す党と地域住民の支持を競い合うべきでしょう。その際、判断する主体はあくまで地域住民であることを忘れないでください。
現実政治家として、共闘対象の他党幹部と「人間的信頼関係」をもつのは当然のことです。問題は馴れ合いとかそういうことではなく、S・Tさんの民主党理解です。これは、吉野傍さんの「現状分析と対抗戦略」討論欄での主張を読んで分かったのですが、あなたがたによるいまの日本社会分析にどうも根本的な誤解があるようです。その点については、吉野傍さんにも予告しましたように、追々「現状分析と対抗戦略」討論欄にてやらせていただくことにします。社会党崩壊の原因は、S・Tさんの言われることとは異なり、おそらく(真に)現実に踏まえた発想が不足していた点にあります。党中央が(あなたがたの言う)「右傾化」の道を歩むにはそれなりの必然性、物的基礎があるはずです。そこを見ないで、一時代以上昔の価値観・世界観でもって原理主義的に対応されても、多くの支持は得られないでしょう。一般投稿欄でも、「共産党批判の方向が逆」という意見が出てました。私のように感じる人がいるということです。ぜひ、より深いレベルでの問題の再考をお願いしたいと思います。