編集部の最近の「お知らせ」欄に書いてあったことは、たぶん私の5月29日の投稿を指しているのでしょう。配慮が足りなかったことを、カワセンさんと編集部に謝罪します。なぜわかったのかという疑問をお持ちのようですが、左翼の世界(とりわけ電脳世界でのそれ)はそれほど広くないので、あなたほどの有名人なら、ハンドルネームからただちに察しがつきました。しかし、それはそれとしていちいちここで書くべきことではありませんでした。ただしホームページ名を何ら特定していないので、私の投稿から個人の情報が漏れたとは思いませんけれど。
では中身に入りましょう。私へのカワセンさんの批判は、おおむねあなた自身にも跳ね返ってくる性質のようです。たとえば、カワセンさんは「以前からあなたの主張には決まり切った図式からの裁断が多すぎるように感じておりました」と書いていますが、あなたの議論こそ、決まりきった図式のオンパレードですね。たとえば、5月26日の投稿で、あなたは「党が目指している(らしき?)漸進主義・改良主義という路線は、それが正しく実態を伴いさえすれば、党の大きな改革・改善にもなり、果ては日本社会の改革に貢献することになると信じられます」と言ってますが、なぜそうなのか何の説明もなく、ただそう「信じられ」ているだけです。つまり、改良主義・漸進主義はいいものだというアプリオリな前提があって、そのうえでそれを編集部に一方的に投げつけているだけです。
しかし、改良主義を信じるのは自由なので、私はそのこと自体を何も非難していません。カワセンさんは確信を持った改良主義者ですから、そのような確信者に改良主義の問題性を指摘しても時間の無駄です。私はただ、カワセンさんが確信を持って立脚している立場と、編集部が擁護している立場とが、カワセンさんのおっしゃるように「対極」であり、それぞれ対極にある立場から中間にある共産党を何とか自分たちの方向に持っていこうと努力しているという、まぎれもない事実を指摘しただけのことです。
「対極」という言葉を使ったのはあなたです。編集部が共産党を「左」から批判しているのは明らかなので、「対極」にあるカワセンさんは当然、「右」から批判していることになります。左右という図式に何の意味があるのかとか、右が悪いと誰が決めたのか、などという反論は意味をなしません。確信ある改良主義者たるカワセンさんが、「右」と言われて心外に思うのがおかしいのです。もし共産党が極左路線に走ったとしたら、編集部も私も「右」から批判するでしょうね。そしてその場合、「君たちの立場はわれわれより『右』だ」などと共産党指導部に言われても、「えーそうですとも、それが何か?」と堂々と答えるでしょうね。まさに、カワセンさんがおっしゃるように、左右の図式は「一定の時代や国における相対的なものであり、絶対的なものではありません」。
またカワセンさんは「『日和見』ということに関しても通俗的なマイナスイメージでだけ言われてますが」とおっしゃっていますが、あなたこそ「教条」という言葉を「通俗的なマイナスイメージでだけ」使ってますね。自分の意見と一致しない人々は「教条」であると証明もなしに断定し、「教条」という言葉の持つマイナスイメージだけで相手を何か論破したような気になっています。
さらにカワセンさんは「相対的には民主的な世界観・価値観を志向しているかに見える党中央」とおっしゃっていますが、何をもって「相対的には民主的な世界観・価値観を志向している」と判断されたのでしょうか? そこらへん、もう少し詳しくおっしゃてくださいませんか?
以上は比較的形式的な議論です。次はもう少し実質的な議論をします。まず、民主主義について、カワセンさんはこう言ってます。
吉野傍さんは「党内民主主義はそれ自体が自己目的ではな」い、と書かれてますが、これは間違いです。民主主義こそがいついかなるときでも、(ただの手段でなく)「それ自体が目的」でもなければなりません。
「民主主義が単なる手段ではなく、それ自体が目的でもある」のはあたりまえです。誰がそれを否定したのでしょう? 社会主義とは何よりも、ブルジョア民主主義を超える民主主義社会なのですから、民主主義こそまさに最大の目的だと言っても過言ではないぐらいです。しかし、私が実際に言ったのは何でしょう? カワセンさんがちゃんと引用してくれています。私が言ったのは「党内民主主義はそれ自体が自己目的ではない」です。「民主主義」一般ではなく「党内民主主義」、「目的」一般ではなく「自己目的」です。この2つの重要な限定をとりはずして反論されては困ります。「自己目的」って意味わかりますか? 他に目的がなく、それ自身が唯一の目的であるということです。「党内民主主義はそれ自体が自己目的ではない」という命題を否定するためには、「党内民主主義はそれ自体が自己目的である」ということを証明していただかなければなりません。
さらにカワセンさんは続けてこう書いています。
そのような民主主義観に立つなら、「党内民主主義を実現した結果として、カワセンさんの表現に従えば『より教条的』になる可能性」など、絶対にあり得ないことになりましょう。
典型的に問題を回避した回答ですね。私が問うたのは、党内民主主義が拡大すれば、現在よりも「右」に行くこともあれば「左」(「教条」と書いたのはあなたの語法に合わせただけのことです)に行くこともあるが、後者の場合でもその結果を許容できるのか、というものです。ところが、それに対するあなたの答えは、自分の不都合な結果(すなわち「より教条的」)になる可能性は絶対にありえない、というものです。これでは全然答えになってはいませんね。もしその「絶対にありえない」ことが現実に起こったら、あなたはこう言うのでしょうね。「そんな起こりえないことが起こったのだから、何か不正がなされたに違いない。だから私はそのような結果を認めない!」。中南米あたりの大統領選挙で負けた候補者がよく言うセリフです。
カワセンさんの逃避的回答はなお続きます。不破政権論や国旗・国歌の法制化問題などをめぐって、中央指導部が党内民主主義の過程を無視してトップダウンで決定したことについて、なにゆえ批判しないのかと私が問うたのに対し、カワセンさんは、「しかし、それがシステムとしてそうなのか、あるいは別の問題が介在しているのか、は党外の人間にはわかりません」と答えています。都合の悪いことは、党外の人間にはわからないというわけですね。しかし、「システムとして」そうであろうが、「他の問題が介在」していようが、そんなことは、この非民主主義的決定過程を批判するかどうかにとって二義的な問題です。もし政権党が、国会での討議や採決を無視して、何か超法規的なことをしたとしたら、その暴挙の原因がシステムとしてそうなのか、他の問題が介在しているのかに関わりなく、非難するべきでしょう。違いますか? システムとしてそうなのか、他の問題が介在しているのかは、非難した上で、ゆっくりと考えればよろしい。
カワセンさんの驚くべき回答はさらに続きます。
党員多数の質的な限界によって、中央の政策「決定過程における非民主主義性」が支えられている可能性が高いのではないか、それなら、まず個々の党員の質を高めることが先決ではないか、そのような感じを強く受けます。それはもちろん、綱領的な価値観・世界観を一度疑い、そこから脱することで初めて可能となりましょう。
いやはや驚きました。「党員多数の質的限界」によって現在の「決定過程における非民主主義性」が支えられているのだから、「まず個々の党員の質を高めることが先決」というわけです。その党員の質が高まるまでは、中央指導部が党内民主主義を蹂躙しつづけてもしょうがないというわけですか? しかし、「党員の質の高まり」はただ、実際の個々の場面における党内民主主義の蹂躙を糾弾し、それを是正する個々の取り組みからしか生じません。にもかかわらず、一方で、中央指導部による党内民主主義蹂躙をそのままにしたまま、「一億総ざんげ」よろしく、われわれ一般党員は「あー、中央がこんな悪いことをしているのはすべて、われわれの質が低いせいなのだから、カワセン語録でも読んで、過去の教条的な世界観を疑い、思想改革をしなければ」と自分に言い聞かせるべきだというわけです。
中央指導部による党内民主主義蹂躙の責任の一端はもちろん、われわれ一般党員にもあります。では、その責任をどう取ればいいのか? その答えはただ一つです。それはまさに、個々の党内民主主義蹂躙を一つ一つ糾弾し、それを改めさせること、そうした行為を繰り返す指導部を変えるべく党内で闘うことです。これが唯一の責任の取り方です。違いますか?