『反デューリング論』という著作が書かれ、我が党の『独習指定文献』にまでなっているにもかかわらず、デューリング病患者があとを絶たないのは、やはり我々の努力が足りないためでしょうか。
唯物史観や国家論に関しては、マルクス主義者(自称のものも含む)のなかで、いろいろと議論されており、まだ正しい解答が出ていないとされているので、混乱があっても無理もないですが、「否定の否定」に関しては、『反デューリング論』でほとんどそのまま述べられています。
すなわち、琵琶湖太郎さんと同じく、デューリングも主観的なマルクス像を自分勝手にでっち上げ、それをやっつけて満足していたのですが、それに対してエンゲルスは正しく批判しているのです。
その批判の内容は、あまりにも基本的なことですので書きませんが、ひょっとして琵琶湖太郎さんは、そんなことは当然ふまえた上で、私などの及びもつかない深い内容のことをおっしゃっているのでしょうか? もしそうならごめんなさい、です。
そうでないとして話を進めます。国家論のところで、「階級が一つになったとしても」とありますが、階級ってなくなるんじゃないんですか。
それはそうと、あの投稿の意図がよく分からないのですが。人を納得させるためには根拠が必要ですが、国家論の所では全く根拠が書かれてありませんよね。ものすごい研究を積み重ねて提出されたマルクスの理論を、「根本的に誤っている」「空想的」な代物だ、というからには、自分でも相当の研究をなさっていると思うのですが、あの投稿だけからではそれを読み取ることは不可能です。
しかし、自分勝手なマルクス像をでっち上げるデューリング病患者は、自称学者先生にもたくさん見いだすことが出来るような気がします。例えば、マルクスの用語は日常用語の純化したものである、と解釈してみせた方(もっともこの方は、自分で創った主観的なマルクス像をやっつけたりはしていませんが)など。これに対して、エンゲルスは『資本論』英語版への序文で、あたかも将来この平田某といった解釈学者が登場するのを予見していたかのように、自分たちの用語について注意を促しています。
『反デューリング論』の「哲学篇」を読み返したところなので、つい書きたくなってしまいました。その影響で文体まで似てしまったかも知れません。