おっしゃる通り、前回のような「デューリング病」の規定はちょっと広すぎたかもしれません。デューリング病といっても、名医エンゲルスが『反デューリング論』で診断しているように、様々な症状があります。例えば、客観的矛盾を否定する症状(傾向)等。こういった具体的な症状で判断した方がいいかもしれません。
しかし、私は非マルクス主義者に対して「デューリング病」というレッテルを貼って満足したかったわけではありません。我々の主体的な力量不足や努力不足を痛感して、さらに自分のための実践として書いたものです。「気楽な人生」とは対極にある人生を歩む努力をしています。
論戦は結構ですが、ご指摘のように「偏った本」を読んでいますので、それも理論的な著作ですので、具体的な事実についてはあまりよく知りません。その辺を了解願いたいです。
それと、マルクス主義の立場に立つ理論家の使命は、マルクス主義の「偏った本」を読むことではありません。「広くオープンにさまざまな社会科学(社会科学だけには限りません)の諸成果を勉強」して、それを自らの立場で創りかえる(自らの体系の中に有機的に組み込む)こと、すなわちブルジョア科学を止揚すること、です。これは、レーニンも正しく指摘しています。
しかし、これも条件付きです。つまり、学ぶにも順序があるのです。若い頃から「広くオープンにさまざまな社会科学」なんか学んでいたら、頭がそのような「社会科学」によって創られてしまい、マルクスなんか理解できなくなってしまう、と私は考えています。もちろん他人に押しつけたりはしません(お勧めですが)よ。これは私の学び方です。
さて、琵琶湖太郎さんの論では、「共産主義的人間」は不可能である、ということが前提の前提になっています。不可能だという根拠は、旧ソ連ですが、これは一般的にいっても誤りです。旧ソ連で不可能だったからといって、他のあらゆる場面で不可能である、ということにはなりません。
国家死滅に関しては、あまり検討していないのではっきりとはわかりませんが、プロレタリア独裁の間に、ねばり強い教育が行われ、各個人が高度の「パーソナリティー」を備えるようになるのではないでしょうか。いわゆる「ボランティア精神」は、この未来の「パーソナリティー」の未熟な形態、あるいは萌芽形態といってもいいと思います。人間は教育によって規範が身に付き、徐々に無意識的にその規範に従って行動するようになります。「三つ子の魂百まで」といわれるように、幼い頃に身について規範は、いわば血肉化されているため、あたかも先天的なものであるかのように思われます。
プロ独の間に、長い時間をかけて教育された人間は、個人の思うがままに行動しても、実はそれは血肉化してしまった規範に基づいて行動しているわけですから、社会全体と調和することができます。また、よく言われるように、生産力のさらなる発展も手伝って、そもそも犯罪を犯す動機も次第になくなっていきます。そうすると、権力(やその実存形態である強力)は、「ねむりこむ」というわけです。
一般的な可能性としてはこのようになると思いますが、これには、人間の認識についての深い研究が不可欠です。いつまでも「土台は上部構造を決定する」と言って、経済の研究ばかりしているようでは、お話になりません。また、先行して高度の「パーソナリティー」を獲得すべき共産党員が、現在のような党内教育や党風の元で活動していたのでは、可能性を現実性に転化させることはできません。
最後に一つだけ、マルクスの国家論の誤解をといておきたいと思います(常識かもしれませんが)。おそらく大多数の人が、マルクスの国家観によれば、「国家意志=支配階級の意志」だと考えていると思います。しかし、これは正解であるとともに正解ではないのです。すなわち、国家意志は支配階級の意志を反映したものですので、両者は相対的に独立しているのです。支配階級といえども、いったん対象化した国家意志には従わざるを得ません。ここから、憲法解釈の問題なども発生するのです。