時々この「「科学的社会主義」討論欄 」を読むんですけどね。結構議論らしきものがありますよね。しかしその議論は一体どのような結末を迎えているのでしょうか。相互対話、切磋琢磨といったものとは程遠い言い争いに終わってるんじゃないですか。お互いの意見を一方的にぶつけ合った挙げ句
どちらかがうんざりして終わりってのが多いように思われるんですけどね。特に、ここはマルクス主義者について書いておきたいと思います。よって、ここではたとえとして、マルクス主義者であろうと思われるJ.D.さんの投稿を取り上げてみましょうか。
彼はいきなり相手を「デューリング病患者」だ、と断言します。なぜならば「主観的なマルクス像を自分勝手にでっち上げ」て批判しているからだそうです。しかし彼は、一体相手がどのようにマルクスを婉曲しているか、とか、それでは本当のマルクス像とは一体何か、を示している訳ではないのです。
これでは、言いがかりも同然ではないでしょうか。「人を納得させるためには根拠が必要ですが」などと書いておきながら、いざ自分の主張となると、
このような言いがかりしかできないのは、まことにむなしいものです。大体、デューリングをエンゲルスは正しく批判した、と書いているのですが、一体どのようにして判断したんでしょうか。デューリングの著作を彼は一度でも読んだことがあるんでしょうか。ぜひ聞いてみたいものですね。エンゲルスが「主観的な」デューリング像を「自分勝手にでっち上げ、それをやっつけて満足していた」可能性だって十分にあるはずですよ。もちろんエンゲルスの正しさを信仰している彼にたいしてこんな事を言っても分からないのかもしれませんが。
とても議論をしようという姿勢ではないでしょう。しかし、これは彼に限ったことではありません。そもそも、マルクス、エンゲルスからして自分たちと意見を異とする人たちを力ずくで排除しようとする傾向がありましたから。その典型的な例が第一インターでしょう。そろそろ。この歴史的な悪習を直してみるといいんじゃあないですか。