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「科学的社会主義」討論欄

senkiさんへ

2000/8/20 J.D.、20代、学生

 どうやら、senkiさんは『反デューリング論』を読んでおられないか、あるいは読んでも内容を理解なさっていないか、どちらかのようですね。議論には、一定の前提が必要なのです。senkiさんには、私が根拠を示していないように見えたのでしょうが、私はちゃんと示しているのです。つまり、あれだけいえば、この「科学的社会主義」討論欄で議論しようというほどの人間なら、「ああ、あのことか」というくらいにだいたい理解できるのです。というより、理解できる人を対象にしていたのです。分からなければきいてもらえばいいだけです。
 しかし、ちょっと不親切でしたね。senkiさんのように、「デューリングの著作を彼は一度でも読んだことがあるんでしょうか」などとおっしゃる方も、現実にいらっしゃるのですから。
 簡単にいうと、マルクスは「否定の否定という法則があるから、現実の社会で、例えば共産制社会が復活したり、あるいは個人的所有が再建されたりする」と主張したのではない、ということです。唯物論の立場では(もちろんこれは科学の立場と一致しますが)、客観的世界がまずあって、その一定の領域で起こるさまざまな現象を貫く必然的な関係を、認識の中にすくい上げたものを法則と呼ぶのです。否定の否定という法則があるのだから、現実の世界はこの法則に従って発展する、などと現実をなにも研究せずに主張すれば、デューリングや琵琶湖太郎さんがいうように、それは観念論であり宗教です。しかし、マルクスはそんな主張はしていないのです。
 このくらい書けばよかったでしょうか? まだ足りないのであれば書くこともできますが、今書いたことも含めて全く同じことが『反デューリング論』に書いています。『資本論』を引用しながら、マルクスがどのような場面で「否定の否定」を使っているか、詳細に書いてありますし、エンゲルス以上にうまく説明する自信はないので、後は参照しておいてください。
 ちなみに、デューリングと琵琶湖太郎さんが共通している、というのは、唯物論者のマルクスを観念論者としてでっち上げた、というだけでなく、そのとき使ったネタが「否定の否定」であるという点でも全く同じだったのです。これで、「一体相手がどのようにマルクスを婉曲しているか、とか、それでは本当のマルクス像とは一何か」の一定の答えになったでしょう(ところでこの引用の「婉曲」は「歪曲」の間違いではないですか? 「婉曲」では意味が不明なのですが)。また、デューリング病と断定したわけも分かるでしょう。最初にもいいましたが、このくらいは最初の投稿で読みとれる、と私は思っていました。
 私の予想をはるかに超えた「反論」めいた文章のおかげで勉強になりました。どうもありがとうございました。