「論戦は結構ですが、ご指摘のように「偏った本」を読んでますので、それも理論的な著作ですので、具体的な事実についてはあまりよく知りません。その辺を了解願いたいです。」
あなたの個人的事情は、良く分かりましたが、ことは国家の問題です。現在、国家のおこなっている事がどのようなもので、いかに我々の生活に役立っているか勉強し、そのすべてが、階級がなくなると同時にその機能がなくなってしまうか検討願います。例えば不注意で火事を起こした場合、消防署があったほうが良いのではないでしょうか?
「学ぶにも順序があるのです。若い頃から「広くオープンにさまざまな社会科学」なんか学んでいたら、頭がそのような「社会科学」によって創られてしまい、マルクスなんか理解できなくなってしまう」
あなたの順序だてて学ぶ方法は良いと思います。ただし、他の社会科学の基礎を知っておいても良いのでは?
「琵琶湖太郎さんの論では「共産主義的人間」は不可能である、といいうことが前提になっています。」
その通りです。
「プロ独の間に、長い時間をかけて教育された人間は、個人の思うがままに行動しても、実はそれは血肉化してしまった規範に基づいて行動しているわけですから、社会全体と調和することができます。」
教育によって、人間はいかようにも変わり得るという楽観的な人間観。個人が人類全体の利益の中に解消されてしまうという考え方。この考え方は、自由と民主主義の宣言で書かれている自由の発展の説明なのでしょうか? 共産主義が発展すれば、いかなる個人であっても軽犯罪すら起こし得ないほどの教育がおこなわれる? いずれにしてもこの前後の話は、階級がなくなると同時に、国家も消滅するというマルクスの説を証明するものでなく、むしろ階級がなくなった後にも国家組織を温存し、教育によって国家なしの状態でも問題ないような状態を作る可能性について書いているので、マルクス説の否定につながる議論を自らおこなっているのではないでしょうか? また可能性でしかないのになぜ綱領に書かれているのでしょうか?