J.D.さんには以前にも苦言を呈したことがありましたが、全然効果がなかったようです。あなたは、たとえば「客観的矛盾を否定する症状(傾向)」と書かれていますが、この「客観的」とは誰が判断するのでしょうか? 「党」なのですか? あなたのマルクス理解は、私に言わせれば、日本共産党公認の(しかも現時点での)ものにすぎず、日本のマルクス研究全体を踏まえたものではありません。あなたは「学ぶにも順序があるのです」と称し、
若い頃から「広くオープンにさまざまな社会科学」なんか学んでいたら、頭がそのような「社会科学」によって創られてしまい、マルクスなんか理解できなくなってしまう、と私は考えています。
これは、
若い頃から「日本共産党系公認のマルクス学」なんか学んでいたら、頭がそのような「マルクス学」によって創られてしまい、マルクスなんか理解できなくなってしまう
としたほうが正しいでしょう。
マルクス理解の仕方さえ、日本だけでも複数あるのです。(ましてや、社会や人間・歴史への見方となれば無数にあります。そのなかからどうして「マルクス」なのですか?)あなたがそれらを公平に比較検討し、そのなかで自分が「正しい」と思う「日本共産党公認のマルクス学」を選択したと言うなら、それはそれなりに(その結論自体には、私は反対ですが)立派な態度と言えましょう。そこから、論議が出来ます。
しかしながら、あなたの場合はそうではないですね。初めから「日本共産党公認のマルクス学」を「絶対正しく唯一の」マルクス理解と思い込んでいるわけですから、いつもいつも出発点をグルグル回っているだけです。これでは、まずそう思わない人(私のような)とは議論が出来ません。議論などする必要はない、と思われているなら、それはもはや「宗教」の態度であります。ちなみに、そういう学問への姿勢はマルクス自身の教えるところのものとは正反対のものであることも指摘させてもらいましょう。あなたはおそらく、最も反マルクス的な態度を取っているのです。ここは、マルクスが「すべてを疑え」と言った真意をくみ取るべきでしょう。
さて、少し内容に踏み込んで言えば、あなたは、
プロレタリア独裁の間に、ねばり強い教育が行われ、各個人が高度の「パーソナリティー」を備えるようになるのではないでしょうか。
と書かれています。これは、人間を「客体」としてしか見れないことを示しており、極めて危険な考え方です。そもそも「プロレタリア独裁」に反対する人や、そのもとでの「教育」を受けたくない人はどのような運命をたどるのでしょうか? 強制収容所送りですか? あなたの発想はナチスやスターリンの破産でもって、人類社会の主流としては克服されている古臭いものです。私はそうした発想が今後、現実的な力をもつことはないと楽観していますが、にもかかわらず、どういう誤解でか、そのような考えを述べる人がここに居ることに失望しています。
琵琶湖太郎さんの「20世紀の経験と議論に学ぼう」のリストは、なかなかよく整理されていると思います。特に実り多いのは、1から3ですが、これらについてはけっこう翻訳や研究があります。これらの成果に学び、現在のあなたのマルクス理解を相対化することで、認識を深めて行ってもらいたいと心から希望します。