まず最初にいっておきたいことがあります。琵琶湖太郎さんは次のように書かれています。
「国家のおこなっている事がどのようなもので、いかに我々の生活に役立っているか勉強し、そのすべてが、階級がなくなると同時にその機能がなくなってしまうか」
「階級がなくなると同時に、国家も消滅するというマルクスの説を証明するものでなく、むしろ階級がなくなった後にも国家組織を温存し、教育によって国家なしの状態でも問題ないような状態を作る可能性について書いているので、マルクス説の否定につながる議論を自らおこなっているのではないでしょうか?」
ところが、マルクスは、階級がなくなると同時に国家もなくなる、とはいっていません。そもそも「国家」といっても二種類あるのですが、ここでは「国家権力」の意味に限定しておきます。プロレタリア独裁というのは、国家権力に他なりませんが、国家死滅への過渡期であるということから、「半国家」とも呼ばれています。プロ独の間に、実体的な資本家階級は打ち倒されますが、その後もプロ独は存続し、政治的=イデオロギー的支配は存続します。
プロ独を成立させる(=国家権力を奪取する)のが、プロレタリア革命であり、これは政治革命です。一方、プロ独を中心とするあらゆる政治的権力を死滅させる(これは同時に社会的分業を完全に止揚する過程と重なると思いますが)のが、社会主義革命であり、これは社会革命です。
以上は、『空想から科学へ』という、一般的には入門書といわれている著作の中にも、論理的には説かれている内容です。私が一番言いたかったことは、マルクスを批判するのであれば、最低限の内容を押さえてからにしてください、ということです。ちなみに、マルクス主義と無政府主義の区別は、社会革命の実現に対する、政治革命の先行性(媒介の必然性)を認めるか否か、という点にあります。プロ独を認めないのは、マルクス主義ではない、ということです。
「例えば不注意で火事を起こした場合、消防署があったほうが良いのではないでしょうか? 」
マルクス主義では、国家は階級支配のための道具である、と捉えるのですが、このことは、国家が全社会に共通の利害に無関心である、ということを何ら意味しません。さらに、消防などという機能は、いつまでも国家権力の実存形態としての国家機関が担う必要はないのではないでしょうか。
「ただし、他の社会科学の基礎を知っておいても良いのでは? 」
確かに、現時点でも、基礎くらいは知っておきたいのですが、なんせ時間がないもので。
「教育によって、人間はいかようにも変わり得るという楽観的な人間観。個人が人類全体の利益の中に解消されてしまうという考え方。この考え方は、自由と民主主義の宣言で書かれている自由の発展の説明なのでしょうか?」
全然違うつもりです。なぜ『自由と民主主義の宣言』なんかを読まれているのか知りませんが、「自由とは必然性の洞察である」との、ヘーゲルレベルの概念化に対して、いわば訂正を求めている考えが基礎になっている『宣言』を、私は支持することはできません。
ところで、「教育によって、人間はいかようにも変わり得るという」人間観は、楽観的だとは限りません。人間は、オオカミに育てられれば、オオカミにもなるのです。
「また可能性でしかないのになぜ綱領に書かれているのでしょうか? 」
ここは二つ指摘しなければなりません。一つ目は、可能性を現実性に転化させるのは、人間です。可能性が「ある」ことに対して、私たちはこれを実現すべく努力します、と綱領に書いて、何がいけないのでしょうか。
二つ目は、私がいったようなプロ独の機能に関わる内容は、日本共産党の綱領には書かれていない、という点です。共産党の綱領とは、本来、社会革命と政治革命の区別と連関を明確にした上で、当面の課題は政治革命であること(何度もいいますがこれがマルクス主義の立場)を明示し、実践綱領としては政治革命的課題に焦点を絞って解明することが要求されます。もちろん、プロレタリア革命が成功した後には、実践綱領の部分が大幅に変更され、社会革命的課題が中心に扱われることになるのは、いうまでもありません。