第一インターの歴史について書こうと思いましたが、おかしなレスをつけてくれた人がいるので少し返答しておきましょう。
さて、JDさん。あなたも困った人ですね。論旨が分かっていないようです。
さて、まずデューリングについて書いておきましょうか。私がいっているのは、なぜ『反デューリング論』を読んだだけで、デューリングは観念論者で
誤っていると判断できるのか? そんな馬鹿な話はない、ということです。これは当たり前のことじゃないですか。あなたが見ているのは、エンゲルスの目を通して見たデューリングなんですよ。最も、エンゲルスは真実しか語らない、エンゲルスは常に正確に相手の論旨を汲み取ることができるそういう事実があるのでした問題はないでしょう。しかし、そうでもない限りはデューリング批判の本を読んだだけでデューリングを批判できた、何てことはありえないのです。あなたにとってはエンゲルスは無謬の人なのかも知れませんが、そんなばかばかしい信仰をいちいち相手にしようとは思いませんので、勝手な前提を持ち出されても困ります。
そう言えば、かつてマルクス主義者達は、『哲学の貧困』というプルードンにたいする中傷本だけを読んでプルードン批判を行なっていましたね。実際には、マルクスは相手の論旨を無理矢理捻じ曲げて批判していたのであり、このような事実が明らかになってからは『哲学の貧困』はプルードン批判としては意味のないものとなってしまいました。
エンゲルスの作り出したデューリング像だけを見てデューリングが分かったような顔をしているあなたを見ると歴史の教訓を汲み取ることのできない愚かさをひしひしと感じてしまいます。
もう一つは「否定の否定」に関する点です。これも実にばかばかしい話で、あなたの頭を疑いますね。国家論に関する所でもそうですがあなたは、マルクス、エンゲルスは「ものすごい研究を積み重ね」たから、「客観的な世界で」「起こるさまざまな現象を貫く必然的な関係を、認識の中にすくい上げたもの」である「法則」を正しく把握できるのだ、という自分勝手な思い込みを持ち出して前提とした上で論旨をたてています。なんともばかばかしい話ではないですか。マルクス、エンゲルスは勉強をたくさんした立派な人だからその主張は常に事実に基づいたものであり正しいのだという信仰がここでも顔を出しているのです。
もちろんあなたは、こう書くとそんなことはない、と言い張るのでしょう。それならば一つ問いただしておきましょうか。『資本論』第一巻の24章の最後に、「否定の否定」を用いている有名な場所がありますね。ここの部分を論理的に説明していただこうじゃないですか。できますか? そもそも、この部分が、研究の中で法則をすくいだしその上で書かれているのならば、すでに実現しているのが当然のはずでしょう。100年たっても実現する気配がまったくないという事実は一体どうなるのかという点もありますがそれはさて置くとしても、「外皮は爆破される」とか「資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る」とか言う部分を論理的な矛盾なく、その過程をがどのようになっているのかをマルクスに基づき、説明して頂きたいと思いますけどね。もちろんあなたの好きな『反デューリング論』を使っても結構ですよ。何の役にも立ちませんけどね。過程を具体的に述べるという作業がまったくなされてませんからね。