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「科学的社会主義」討論欄

カワセンさんへ

2000/8/22 J.D.、20代、学生

 まさか、カワセンさんが絡んでくるとは思っていませんでした。相変わらず、人を宗教家よばわりされている(50代にしては大人気ないですね)ので、ちょっと書いてみたいと思います。

「あなたは、たとえば『客観的矛盾を否定する症状(傾向)』と書かれていますが、この『客観的』とは誰が判断するのでしょうか? 『党』なのですか?」

 この問い自体が、私に言わせれば、何ともピントの狂った、文献解釈に精を出しておられる方特有の、ものにすぎず、マルクス・エンゲルスの弁証法を踏まえたものではありません。「日本のマルクス研究全体」には精通しておられるようですが、肝心のマルクス・エンゲルス自体には暗いようですね。
 生物においては、細胞の死滅と細胞の発生という対立が存在しています。細胞の「死滅」と「発生」という対立を背負っている関係として、生物が存在しているので、この関係を「矛盾」と呼ぶのです。ふつう「矛盾」と言えば、盾と矛の例でも分かるように、人間の頭の中にしか存在しませんが、生物という矛盾は客観的に存在しています。従って、この種の矛盾を「客観的矛盾」と呼ぶのです、弁証法では。不破哲三風に言えば、「矛盾」とは、社会科学ならぬ、弁証法の用語なのです。それとも、カワセンさんの問いは、「生物が客観的に存在すると言うが、それは誰が判断するのか」という問いですか。それなら私は「幼稚園児でも判断できます」と答えておきます。
 ちょっとお聞きしたいのですが、カワセンさんは、日本のマルクス研究全体をそれなりにおさえておられるのですよね。当然、「日本共産党系公認のマルクス学」の内容も。そこで、「現在のあなたのマルクス理解を相対化することで、認識を深めて行ってもらいたいと心から希望します」とおっしゃっているカワセンさんにお願いしたいのですが、「日本共産党系公認のマルクス学」も含めて、大雑把なマルクス解釈の潮流(学派?)と、その特徴を教えてもらえませんか。そうしないと、私と「日本共産党系公認のマルクス学」の共通性が見えてこないのです。
 カワセンさんの誤解とは違って、私は不十分ながらも他のマルクス解釈(日本共産党のそれも含む)や他学説も公平に検討しました。その中には、いわば直観的に、「これは違うな」と思うようなものもあったのです。それに、まだ検討していないものも当然あるでしょう。しかし、私の目的は、「日本のマルクス研究の全体」をおさえることでもなければ、さまざまな歴史観や世界観を比較検討することでもないのです。こういったものは、一定のところで切り上げて、その時点で最も正しいと思った理論を学び、実践に役立てることです。その際、その選んだ理論が一見役立たなくなったり、何か不整合だと思えるようなことがあっても、直ちにその理論がおかしいのではないか、と疑うのではなく、自分の未熟な頭と(私の場合は)マルクスなどを比較してみて、自分が間違っている可能性の方が高いな、と判断する方がいいのではないか、と私は考えているわけです。これには、自分の能力を過信していた日本の自称「哲学者」の失敗から教訓を得た、という根拠もあります。
 私は、「さざ波通信」でも、日本共産党と私のマルクス理解の違いを指摘しているつもりですが、同じだとおっしゃっているのですから、この点だけでも明らかにしてもらいたいです。
 また、マルクスの言った「すべてを疑え」という言葉に関しては、ずっと前に私の理解を述べておきましたし、今回の内容からも明らかですが、無条件にすべてを疑っても、何にもならないのです。「マルクスはすべてを疑え、といったのだから、当然我々はマルクス自身も疑わねばならない、これこそマルクスの態度だ」と言えば、なるほどもっともらしく聞こえますが、もっともらしければいいというものではないのです(宗教が、信者にとってはどれほどもっともらしいことか)。それこそ、マルクスの真意をくみ取るべきだと言いたいです。前回挙げた例で言うと、学問的には小学校の低学年の実力もあやしい我々に対して、大学教授である(たとえですよ)マルクス先生が、「地球は太陽の周りを回っている」と教えてくださったのに、現象に引きずられている我々が、それを疑って、「地球の周りを太陽が回っているではないか!」と言ったところで、何になりますか。これでは喜劇です。疑うにも実力が要るのです。
 私はこの喜劇をいたるところで確認しているからこそ、自分の学び方を強調したまでです。
 プロレタリア独裁の箇所についてですが、人間を「客体」としてしかみられない発想だ、とおっしゃっていますが、百歩譲って、私がそのような発想だとすると、カワセンさんの理解では、マルクスも同様の発想であった、といえるのですか? カワセンさんのマルクス解釈を知る参考として、是非教えてほしいのですが。

「そもそも『プロレタリア独裁』に反対する人や、そのもとでの『教育』を受けたくない人はどのような運命をたどるのでしょうか?」

 ブルジョア独裁に反対する人や、そのもとでの「教育」を受けたくない人は、どのような運命をたどっていますか。それはともかく、プロレタリア独裁による政治的=イデオロギー的支配については、私にはまだ一般的なこと(マルクスが言った程度のこと)しかいえません。ナチスやスターリンのような仕方になってはいけないと思いますが、まだ学び始めたところですので、具体的事実とともに研究したいです。
 最後に、議論する必要がない、というのが即宗教の態度、ということにはなりませんよ。語の本来の意味での「学者」であれば、よほどの理由がない限り、とるに足らない相手と議論したりはしません。エンゲルスが、どれほどデューリングを相手にするのをいやがったか、想像してみてください。