「絡んで」いるつもりはないのですが、全然変わらないあなたを見て、どうしても言っておきたくて参入しました。20代にして古色蒼然たる「信仰」をおもちのようで、他人事ながら恥ずかしくもあり、少しでもあなたの変化のお役に立てるなら、との一心からです。
生物は「弁証法」的に理解すると「矛盾」した存在とのご説ですが、「矛盾」というのは一つのモノがその本質において同時に「矛」であり「盾」でもある場合を言うのです。もし生物が「矛盾」していると言われるなら、それは同じ一つの「細胞」が同時に「死滅」し「発生」する、そんな状態でなければなりません。しかし、「発生」する「細胞」と「死滅」する「細胞」とは、同じ時間で見れば別の「細胞」であり、同じ「細胞」で見れば別の時間なのであって、上の「矛盾」の説明には該当しません。
だから、「「矛盾」した存在である生物は存在しているから、客観的矛盾は存在している」という「論証」は、そもそもの前提が間違っており、ナンセンスの極みです。それに、あなたに言わせれば、「客観的矛盾」の存在は「幼稚園児」にも分かるそうですが、そもそも私が引用したあなたの文は「客観的矛盾を否定する症状」についての指摘でした。「幼稚園児にも分かる」ものが実は「大人にさえ分かっていない」現状を問題にした文脈で、でした。(それとも、分かっているのに否定する、ということなのでしょうか? そんなに世の中、悪意ある人ばかりだと思っているのでしょうか)だから、ここでも議論は堂々めぐりになってますね。
そうなってないなら、どうするのか。その際に私はあなたの言う前提である、そもそもの「客観的」ということに疑義を唱えたのでした。ここでもあなたは誠実に対応しているとは言い難い態度を取られているのが残念です。
大雑把なマルクス解釈の潮流(学派?)と、その特徴を教えてもらえませんか。
あまりに膨大になるので一口には言えません。ただ、要点は少し述べることが出来ましょう。
まず、あなたの恥ずかしいところは「プロレタリアート独裁」などと言う言葉(路線・戦術?)を平然と使われている点。マルクス・エンゲルスの古典解釈講座ならいざ知らず、ここは現代日本社会の変革を話し合う場なのではありませんか? 日本共産党周辺の学者(例えば田口富久治氏など)でもすでに30年以上前から先進国における革命の困難性について認識し、日本においては「プロレタリアート独裁」は採り得ないことを明らかにされてきました。ちょうど100年前のドイツでベルンシュタインが修正主義論争を展開してますが、そこでの論点がいまだに有効な訳です。
以前、どこかであなたは「平田某」氏を口汚く罵ってました。これは平田清明氏のことではないか、と推察しますが、氏の『市民社会と社会主義』(岩波書店・1969年)はいまだに名著として語り伝えられている立派な業績です。戦後日本のマルクス学のメルクマール的な仕事であり、今日「ブーム」になっているアソシエーション論の先駆でもあります。この辺のことを日本共産党の知識でどれぐらい押さえられているのか、私はよく知りませんが、より広い日本のマルクス研究の流れから言うと、そうなのです。
あなたの目的が「「日本のマルクス研究の全体」をおさえることでもなければ、さまざまな歴史観や世界観を比較検討することでもない」ことはよく理解してます。ただ、愚かで非現実的な「理論」ではおよそ「実践」の役には立ちません。いまの社会と時代のどこをどう見れば、変革手段の選択肢として「プロレタリアート独裁」などというものが現実的にあり得るとする発想が出てくるのでしょうか?
あなたの発想は、日本でのこの30年、国際的に見ればこの100年の知的営為をまったく無視したもので、そこを情けなく感じます。なお、以前にも紹介した『マルクス・カテゴリー事典』(青木書店・1998年)は日本の最新のマルクス学の成果が凝縮された本です。日本共産党がどのようにこの本を評したかは知りませんが、ずいぶん勉強になるいい本です。繰り返し紹介しておきます。
次に、「人間を「客体」としてしかみられない発想」がマルクスにもあったのかどうか、とのご質問。私は「あった」と思います。そこがマルクスの限界であり、歴史によってすでに暴かれた点(マルクスの言ったようになってない、とベルンシュタインが指摘したこと)なのではないですか? しかし、マルクスの歴史的意義はまた別のところにあります。それは、知的方法による現実分析ということで、これこそが近代社会科学を拓いたのでした。BBCだったかのアンケートで、この第二ミレニアム期に最も影響のあった思想家としてマルクスが選ばれたのもまったく当然のことなのです。
さて、ここは学会でなく、議論の場です。ここであなたはあなたの「信仰」でもって、異端者を折伏しようとの意図でもって書き込みをされている。それなら、議論の姿勢を見せてもらいたい、私が言っているのはそういう意味です。なお、まともな学者なら、見ず知らずの一市民の問い合わせにもけっこう誠実に応えてくれるものですよ。アカデミズムでふんずりかえっているような「学者」にまともな仕事が出来るとも思えません。それとも、そういう「ブルジョワ」?「学者」のほうがあなたの理想ですか?
付言すると、わざわざ『反デューリング論』などを持ち出したこと自体、あなたの教条ぶりを表わしているとしか言いようがないと感じられます。大方の人もそう感じていることでしょう。あの議論の流れでは、何も『反デューリング論』に言及などする必要はなかった。「エンゲルスが正しく、デューリングが間違っているとする前提がおかしい」というのは、あなたの問題点を鋭く突いている指摘です。言わずもがな、でしたね。