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「科学的社会主義」討論欄

senkiさんへ(2)

2000/8/24 J.D.、20代、学生

 よく見るとここには、20代の学生の方が多いですね。それにしてもsenkiさんは、『反デューリング論』を読んでおられたのですね。邪魔をしてしまったようです(しかし、あんな投稿があれば誰だってレスするような気がします)が、もう少しおつきあいください。あなたが「信仰」と呼ぶ私の学び方については、別便で少し説明しておきましたから、そちらも参照してもらえるとありがたいです。端的にまとめますと、「マルクス、エンゲルスは勉強をたくさんした立派な人だからその主張は常に事実に基づいたものであり正しいのだという信仰がここでも顔を出しているのです」とありますが、「常に」ではなく、現時点での私よりは相対的に「正しい」と判断することにしている、ということです。これでもまだ「信仰」と呼ばれるのでしたら、全然かまいません。私にとって重要なことは、学び方が信仰的であるか否かということではなく、自分の実力を付けることですから。
 デューリングのことですが、デューリングとプルードンを同列に扱うのはどうかと思います。ある一定レベル以上の人物であれば、その人物に対する批判者の目を通してみた人物像だけでもって、その人物が誤っていると判断するのは確かに不当です。しかし、すべての人物に対して(=無条件に)これが不当だといってしまうと、間接的な資料による批判なんかできないことになります。読まなければならない分量があまりにも膨大となってしまいます。私は今まで学んできた知識をもとにして、デューリングは「一定のレベル」にはとうてい達していないと判断しています。このような考え方ではだめですか?
 また、私がいつも主張している点もまさにここにあるといってもいいです。マルクスは「ある一定のレベル以上」の人物であり(もちろんこのレベルというのは個人によって多かれ少なかれ変化するでしょうが、マルクスは大半の人にとっては「一定のレベル以上」の人物であると思います)、だからこそ、マルクス主義者であろうとなかろうと、他人の目を通してみたマルクス像で、マルクスを判断してはならない、ということです。
 この問題に関してもう一ついっておくと、senkiさんは次のようにおっしゃっています。

「実際には、マルクスは相手の論旨を無理矢理捻じ曲げて批判していたのであり、このような事実が明らかになってからは『哲学の貧困』はプルードン批判としては意味のないものとなってしまいました。」

 あなたの論でいくと、マルクス『哲学の貧困』は当然として、プルードン『貧困の哲学』も自ら読んだ上での判断ということになりますよね。『貧困の哲学』の邦訳って、何を利用されました? ひょっとして、原文で読まれましたか? また、『哲学の貧困』は、プロ独形成論として、どれほどの価値があると思いますか?
 「否定の否定」に関しては、『反デューリング論』を読んでおられるなら、私のいえることはほとんどありません。前回もいったとおり、エンゲルス以上にうまく説明する自信はありません。つまり、エンゲルスの説明でも分からないのであれば、私の説明でも分からないでしょう。といいつつ、一つだけいわせてもらいます。それは次の発言に対してです。

「そもそも、この部分が、研究の中で法則をすくいだしその上で書かれているのならば、すでに実現しているのが当然のはずでしょう。100年たっても実現する気配がまったくないという事実は一体どうなるのか」

 全く痛いところをつかれた、といわざるを得ません。申し訳ない。社会における法則性の担い手は人間なのです。従って、人間が何もしないで放っておいても、「外皮は爆破される」とか「資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る」とかいうわけにはいかないのです。端的に言えば、「100年たっても実現する気配がまったくない」主な原因は、共産党の怠慢にある、と私は考えています。そのことを明らかにするために、私はここに投稿しているのですし、また研究を重ねているのです。
 やっぱり、もう一つ追加。「過程を具体的に述べるという作業がまったくなされてませんからね」とありますが、これは具体的にどういうことですか。マルクス主義では、資本主義の根本的矛盾は、生産の社会性と生産手段の私的所有との矛盾であり、結局ここから様々な問題が生じているのだから、この根本矛盾を止揚しなければならない(ここまでは土台の話、従って『資本論』で解かれている)が、根本矛盾の止揚のためには、つまり社会・経済変革(=外皮を爆破すること)のためには、まずもってプロレタリアートが自らを最強の政治的権力として組織することによって国家権力を奪取(=政治革命)しなければならない(ここまでは上部構造の話、従って『資本論』では説かれていない)、と説明するのですが、この過程をもっと具体的にも述べろ、ということですか。それなら、『資本論』やそれを解説した『反デューリング論』の「否定の否定」の部分にそれを求めるのは無理というもので、マルクス・エンゲルスの政治学や革命論の著作や論文、レーニンの著作等を参照してもらうしかありません。「外皮」を爆破するしか問題を根本的に解決する方法はない(これは『資本論』で解かれたこと)ということと、それを人間が如何にして実現するのかということとは、一応区別して考える必要があります。『反デューリング論』に対する「何の役にも立ちませんけどね」という発言から推測してみましたが、これは見当はずれですか? それなら、もう少し具体的に説明してください。