見ず知らずの学生のために時間をとってもらって恐縮です。しかし、おっしゃっていることがいまいち理解できません。学問というものは、新しければいいというものではありませんよね。過去の遺産を正しく継承することが前提です。
カワセンさんは、平田某を高く評価されているだけあって、学術用語と日常用語の区別が、少なくとも私なんかの理解と異なるような気がします。マルクスが「生産」といえば、「ものをつくること」などと理解していません? 「社会(ゲゼルシャフト)」といえば「市民社会」と理解してるんじゃないですか?
「「矛盾」というのは一つのモノがその本質において同時に「矛」であり「盾」でもある場合を言うのです。もし生物が「矛盾」していると言われるなら、それは同じ一つの「細胞」が同時に「死滅」し「発生」する、そんな状態でなければなりません。」
この「矛盾」の説明は、マルクスが「矛盾」という場合は(=学術用語としての「矛盾」は)このような意味で使っている、という説明なのですか? それとも、ふつうは(=日常用語としては)このような意味で使う、という説明ですか? このあたりが少し分からなかったのですが。「矛盾」の認識が一致していなければ、「客観的」について云々することはできないと思うので、まずこれを問題にしたいです。
後者だとすると、「だから、おまえのいう客観的矛盾なんてものは存在しないのだ」ということを主張されているようにも受け取れます。例が悪かったですかね。それでは、生物は変化していると同時に変化していない、従って矛盾である、というのはどうですか。例えば、人間は幼児→成人→老人と年をとるとともに、肉体的にも精神的にも変化しますが、同時に自己同一性を保っていますよね。また、子供がいる人間は、親であると同時に子でもあります。従って、矛盾しています。売るという行為は、買い手にとっては買うという行為です。売ることであると同時に買うことでもある、という行為は確かに存在しています、等々。
前者だとすると、私の理解とは少し違っています。ここで説明されているのは、「直接」という、矛盾の特殊なあり方であって、その全体の説明ではない、というのが私の理解ですが、現時点であまり書くとややこしくなりますね。
あと、幼稚園児にも分かる、といったのは、生物が客観的に存在している、ということについてです。まさか、幼稚園児が昆虫を手にとって、「この昆虫は自分の認識が生み出したものであるから、主観的にしか存在しないのだ」とは思わないでしょ、というくらいの意味です。
「学者」については、田口富久治を「学者」と呼んでおられるので、私の場合とは意味する内容が違うようです。それはともかく、
「あの議論の流れでは、何も『反デューリング論』に言及などする必要はなかった。」
にある、「あの議論」というのは、何のことですか? 最初の投稿でも断っておいたとおり、私は最近読み返した『反デューリング論』に登場するデューリングと琵琶湖太郎さんがあまりにもそっくりだったので、そのことを指摘したのです。それがきっかけで、マルクス理解に関して議論できればいいのだが、というつもりで、いわば議論のきっかけとして、書いたのです。だから、最初の時点で議論の流れはなかったと理解していますが。議論を開始しようとしたのですから。
ちょっと考えたのですが、議論といっても必ず限界がありますよね。議論する人の知識量や議論する場によって、さまざまに制限されます。しかし、逆にいうと、どんな場合でも、一定の限界内であれば、議論できるんじゃないですか。例えば、私がマルクス教を信仰していると仮定(あくまで仮定ですよ)しても、マルクス自身の言葉の解釈などは、それが正しいかどうかは一応別問題として、一定議論できます。
私は、多くのマルクス主義者がマルクスを正しく理解できなかったことに由来する誤解が、今かなり存在すると考えています。だから、そのような誤解を指摘することは意味があると考えています。それに対して、おまえのマルクス理解は正しくない、という意見があれば、当然議論できるでしょう。しかし、「さざ波通信」のような場では、逃げることも容易ですし、相手に罵声を浴びせるだけで終わることもできます。無視することもできます。この辺が限界だと思います。
カワセンさんとだったら、『マルクス・カテゴリー事典』の内容で議論できるかもしれません。よく似たもので『新マルクス事典』なるものもあったように記憶していますが、ともにあまりしっくりこなかったのと、値段が高かったために、買っていません。私の大学は蔵書が貧弱なのですが、図書館にあれば、借りて、少し検討してみます(以前紹介してもらったときに、書店で少し読んでみたのですが)。最初に「矛盾」についてふれておきましたが、これならつっこんだ議論ができるのかも(やってみなければ分かりませんが)。
「ただ、愚かで非現実的な「理論」ではおよそ「実践」の役には立ちません。」
全くその通りですが、それなら、カワセンさんが学ばれた理論で、カワセンさんはどのような仕事をなされたのでしょうか? あるいはその理論で、人類の遺産として残るような、人類史に何物かを付け加えるような、仕事ができる見込みはありますか? これがあると、かなり説得力があるのですが。