見ず知らずの学生のために時間をとってもらって恐縮です。
インターネット上で知り合うのは、普通「見ず知らず」同士でしょうし、それがインターネットでの議論の特性でしょうから、気にしないでいいでしょう。 また、こうした公開の場での議論というのは特定の人を相手にしてはいても、ほかに読んでくれる人が居るわけですから、何もあなただけを対象としているものでもありません。それに自分の考えをまとめるいい機会だと、私としては感じてます。
学問というものは、新しければいいというものではありませんよね。
そんなことを言った覚えはありません。
過去の遺産を正しく継承することが前提です。
まさにそのとおりです。あなたの議論は20世紀の経験を無視し、19世紀レベルに留まっているのでおかしい、と言っているのです。
カワセンさんは、平田某を高く評価されているだけあって
「平田某」などと呼ぶ呼び方は平田清明氏に失礼ではありませんか? こうした表記にあなたの党派性・教条性・残存スターリン主義性を感じるのは私だけではないでしょう。あなたが実際に平田清明氏の本を読んだうえで、そのどこがどういけない(反動的で、焚書に価する?)と感じているのか、それを明らかにすることなく、一方的な他者への誹謗中傷の表現を続けられることに抗議します。また、田口富久治氏についても「呼び捨て」のようです。田口氏の議論のどこがどうダメなのか、きちんと明らかにしてください。私にとっては、あなたに読んでもらいたい第一の人なのに、それを天敵のように否定されては議論が不可能になります。
学術用語と日常用語の区別が、少なくとも私なんかの理解と異なるような気がします。
平田清明氏の学問と、この「区別」がどう関係するのか不明ですが、あなたは何かこの両者に「区別」をつけないと気に入らないようですね。しかし、そのような「区別」をする発想自体、ナンセンスでしょう。これらに「区別」などあり得ようもない。学術用語は日常用語に踏まえて形成されているはずで、両者に(それこそ)「矛盾」などありません。矛盾論を延々とやっても徒労ですが、
生物は変化していると同時に変化していない、従って矛盾である、というのはどうですか。
これもですねえ、別の局面、別の次元から見て、あるときは「変化している」とも言え、「変化していない」とも言える、という程度のことであって、そんなことを「矛盾」と言おうが言うまいが別に生物の本質論議にはならないのではないでしょうか?
あと、幼稚園児にも分かる、といったのは、生物が客観的に存在している、ということについてです。
これもですねえ、素朴実在論なら知らず、大人ならそう簡単に実在を「信じる」というわけにもいかない、ということはご存知ないのでしょうか? 19世紀末ぐらいからの議論がありますよね。たとえば、「昆虫」にしても、これは人間が生物を分類し、これこれの科のこれこれの目の・・・とやって初めて「昆虫」として人間に認知された存在となるのであって、どことも知れないジャングルにまだ人間に未知な「昆虫」はたとえどこかに存在していても、人間にとっては存在していないと同じ。つまり、人間の認識が及ばない地平では「昆虫」と言えども存在しないわけです。だから、あなたが言っているほどことは単純ではありません。
「あの議論」というのは、何のことですか?
議論を提起したのはあなただったのかもしれませんが、それはあまり大した問題でもないでしょう。あなたは琵琶湖太郎さんの提起に、エンゲルスによってつくられ否定されたデューリングを感じたから、そう書いたのでしょう? それがそもそもエンゲルスを無条件で信頼してしまう、あなたの教条性の表われだと私(たち)は言っているのですよ。
どんな場合でも、一定の限界内であれば、議論できるんじゃないですか。
これにはまったく同感です。
私は、多くのマルクス主義者がマルクスを正しく理解できなかったことに由来する誤解が、今かなり存在すると考えています。
それはもちろんあるでしょう。アソシエーション論の興隆?なんかもそうした状況を変えようという儚い?試みの一つなのでしょう。問題は、果たして「誤解」なのかどうか、という点ですね。
それなら、カワセンさんが学ばれた理論で、カワセンさんはどのような仕事をなされたのでしょうか?
私は政治とは無縁の一市民でして、革命家でも実践家でもありません。それに何か完成された「理論」を学んですべてが分かるという、そうした考え方自体をここで批判しているわけですから、ずいぶんとおかしな質問です。
あるいはその理論で、人類の遺産として残るような、人類史に何物かを付け加えるような、仕事ができる見込みはありますか? これがあると、かなり説得力があるのですが。
繰り返しになりますが、ある完成された「理論」――これさえ得られれば、社会の動きやシステムが完全に分かり、そのとおりに「実践」すれば素晴らしい社会がつくれる――があるという考え方こそ、私たちがいま乗り越えていかないといけない発想法なのです。プラトン、アリストテレス以来、人類はそうした考え方に弊害を蒙ってきました(もちろん利得もあったわけですが)。その典型がマルクスの思想ですね。しかし20世紀を通じてマルクスの思想は実践面で破綻したと言えますし、そもそも20世紀の初めにドイツではベルンシュタインによって理論面でもってマルクスの破綻は暴き出されていました。だから、いまこれらを新たに学ぶことによって、「ある一つの完成された素晴らしい理論」主義とでも言ったものから脱却してください、というのが私の主張なのです。