「学問というものは、新しければいいというものではありませんよね。
そんなことを言った覚えはありません。
過去の遺産を正しく継承することが前提です。
まさにそのとおりです。あなたの議論は20世紀の経験を無視し、19世紀レベルに留まっているのでおかしい、と言っているのです。 」
私は、20世紀の研究が19世紀の遺産を正しく継承していないのではないか、そのためにマルクス以前に後退しているのではないか、といっているのです。
平田氏については、どこがダメだと感じているかは明らかにしています。つまり、マルクスの用語に、日常用語の意味を押しつけている、という点です。カワセンさんが、「これはおかしい」と思うのなら、そこから議論が開始されるわけでしょう。「それを明らかにすることなく、一方的な他者への誹謗中傷の表現を続けられることに抗議します」という、この「抗議」は不当じゃないですか。
「そのような「区別」をする発想自体、ナンセンスでしょう。これらに「区別」などあり得ようもない。」
本気でおっしゃっているのですか。この主張の根拠は、「学術用語は日常用語に踏まえて形成されているはず」というものですが、これが即「区別はナンセンス」ということになるでしょうか。むしろ、学術用語は日常用語から借りてきたものも多いから、その区別をしっかりしなければならない、ということになると思います。
マルクスの経済学で「価値」といえば、日常用語の「価値」と「『区別』などあり得ようもない」ということになるでしょうか。マルクスは自然物に価値を認めなかった、という場合、経済学の用語としての「価値」の意味なら、(自然物には労働が対象化されていませんから)確かにマルクスはそのように主張していますが、日常用語としての「価値」の意味なら、マルクスはそんな主張はしていない、ということになります。この区別がナンセンスですか。
今の一例は、やはり学術用語と日常用語の区別をしっかりと理解しなければ、マルクス批判が的外れになることを暗示しています。しかし、この区別は何もマルクスに限らず、あらゆる分野の学問において必然的なものであると思いますが。
矛盾についても同様です。マルクス・エンゲルスが「矛盾」をどのような意味で使っているかを理解していなければ、的外れな批判になってしまいます。カワセンさんは昔、「知っていなければ批判できないのは確か」とおっしゃっていませんでしたか。マルクス・エンゲルスは、私が挙げたような場合にも、矛盾といっているのです(もちろん、ヘーゲルからきたものですが)。因みに、既知のものに対して、これは矛盾である、と指摘してみたところで、「それに何の意味があるのか」と反論したくもなりますが、未知ものに取り組む場合は、これは矛盾した構造を持っているのではないか、という予想を持つことは、有意義だと考えています。マルクスが、労働者を、生きた労働と対象化された労働の統一として理解したために、リカード学派がぶつかっていた困難な問題を解決できた、ということは常識だと思うのですが。
「これもですねえ、素朴実在論なら知らず、大人ならそう簡単に実在を「信じる」というわけにもいかない、ということはご存知ないのでしょうか?」
百も承知です。むしろ、こういう意図で書かれたかもしれない、と予想して、私は「幼稚園児でも分かる」と書いたのです。『裸の王様』ってご存知ですか。「大人」と素朴な「子供」の関係のある一面を捉えています。
「つまり、人間の認識が及ばない地平では「昆虫」と言えども存在しないわけです」
このような主張の立場を私は観念論と呼んでいます。唯物論の立場では、ジャングルに存在する未知の昆虫に、人間の認識が及んだとき、これを「発見」といいます。
「問題は、果たして「誤解」なのかどうか、という点ですね。」
まさにその通りだと思います。そこに、私たちの最大の対立点があるのでしょう。そこなら議論できます。何度もいいますが、この問題は、マルクス・エンゲルスの理論が正しいかどうかとは、一応無関係に議論できます。
「それに何か完成された「理論」を学んですべてが分かるという、そうした考え方自体をここで批判しているわけです」
私は、マルクス・エンゲルスの理論が完成している、なんてことは一言も言っていませんし、思ってもいません。私がききたいのは、あなたが紹介されたものを読んで、何の役に立つのか、ということです。役に立つ保証がない(もっといえば役に立った実例が一つもない)ものは、あまり読みたくないのです、時間の無駄ですから。そういう実例がありますか、あるいはそういう実例がでる見込みはありますか、ということを聞いているのです。因みに、私の学んでいるものについては、実例はありますが、ここではいえません。
田口富久治氏(私はマルクス・エンゲルスも常に「呼び捨て」ですが)については、保留させてください。