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「科学的社会主義」討論欄

日常語と学術語、呼び捨て、役に立つことなど>J.D.さんへ

2000/9/3 カワセン、50代、自由業

平田氏については、どこがダメだと感じているかは明らかにしています。つまり、マルクスの用語に、日常用語の意味を押しつけている、という点です。

 全然明らかではないですよ。平田清明氏がどこそこでこう言っている、しかしそれはマルクスの解釈としてはおかしい、ほかにもそうしたおかしなことをいっぱい言っている、だから平田氏はマルクス学者としてダメである。こういう指摘なら分かります(ちゃんとそれぞれ引用したうえでの主張ならね)。しかし、「マルクスの用語に、日常用語の意味を押しつけている」では、何を言っているのかさっぱり分かりません。「学術用語と日常用語の区別」論はナンセンスです。あなたの言う「区別」が、「学術用語には日常用語とは違って、もっと深~いイミがあるんだ」という程度のことなら、それはそのとおりだとしても、だからどうなのですか? それに対して、私が言っていることは両者は別に「矛盾・対立」しているわけではない、ということです。マルクス解釈の是非論をこの「区別」論でもって行おうとするのは、マルクスの本質を突いているわけでもないのでヤメにしましょう。平田氏について、もっと具体的に言ってもらわないと全然理解できない。

「つまり、人間の認識が及ばない地平では「昆虫」と言えども存在しないわけです」  このような主張の立場を私は観念論と呼んでいます。唯物論の立場では、ジャングルに存在する未知の昆虫に、人間の認識が及んだとき、これを「発見」といいます。

 未知の昆虫を「発見」したと言うのは別に「唯物論の立場」でなくてもそう言いますね。あなたの唯物論理解は、やはりマルクス以前の実在論的な唯物論のようです。そういう「唯物論」を『フォイエルバッハ・テーゼ』でマルクスが批判していますので、ぜひお読みください。

私がききたいのは、あなたが紹介されたものを読んで、何の役に立つのか、ということです。

 私が「紹介したもの」でなくて、「紹介したものの見方」と言ったほうがいいのですが、この「役に立つ」という表現で、私たち多くの市民の幸福につながるということを意味されているなら、それは「役に立つ」と言えます。現在の日本の混迷は、日本の改革勢力が未熟で権力に到達していない点にあります。
 日本的な政財官三位一体勢力がいつまでも権力の座にあることで、日本が「普通の国」になかなかならない。一方で、改革勢力へと成長していくべき勢力は、いつまでも観念的な「革命幻想」から自らを解き放っていない。その思考は常に「オール・オア・ナッシング」で、ただ現状を「批判」するだけの自己満足のレベルに留まっているのです。
 それは常に最善を目指すものの、無理なら次善を、あるいは次々善を選び取ることを躊躇しない、いや場合によっては最悪を回避するための次悪の選択をも許容する、という柔軟な現実政治の思考法をもち、一歩一歩「よりましな」社会を目指しての改革の道を歩む。そうした姿勢とは対極にあるものです。
 彼らはそうした姿勢を「右傾化」「改革派」と言って罵倒するだけなのでしょう。しかしながら、そうした「左翼」がまた日本的な保守勢力を実質的に支えてしまっていることも明白です(その象徴的な現れが村山政権)。価値判断は置いても、日本共産党が日本の左翼勢力の大きな部分を占めることに変わりない以上、この党が自らを成長させ、現実的な改革の党へと自己変革を遂げなければ日本の将来はないと言っても過言ではありません。
 スターリン主義の党が自らの努力で自己変革を遂げた先行例がすでにあります。それが周知のイタリア共産党から左翼民主党への大転換です。こうした方向で党が変わらなければならないのに、この「さざ波編集部」の方針は、現在の党執行部よりもさらに教条的であり、旧来の「マルクス=レーニン主義」に固執しているように見える。そして、あなた、J.D.さんもまた、私には同様に思える。だから、少しずつでもいいから変わって行って欲しい、そういう想いでもって、私は書いているわけです。
 呼び捨てについてですが、歴史上の人物にいちいち「氏」とか「さん」は普通はつけません。「プラトンさん」とも言いませんし、「マルクスさん」とも言いません。「レーニン氏」とかも、普通は言いませんね(笑)。もっと身近で同じ日本人の場合は、これは微妙です。もちろん論文などでは、一般に敬称を付けませんが、普通私たちにしても、例えば「丸山眞男氏」などといちいち言いません。この場合は呼び捨てでもあまり抵抗はない(ただし、「何某」は論外)。
 しかし、以前から私が気になっているのは、日本共産党による「呼び捨て」「方針」です。除名になった人や、「反党分子」(と党が規定している人)を「呼び捨て」にしている(一方、党に近い人などは「氏」「さん」付けでしょう)。それはそうすることで、人間扱いしない、全人格を否定することを意味しているのではありませんか? それと同じ神経を、J.D.さんの「呼び捨て」に感じたのでクレームを付けた次第です。