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「科学的社会主義」討論欄

一つの例>カワセンさんへ

2000/9/8 J.D.、20代、学生

 平田氏は、シンポジウム「所有の概念をめぐって」において、次のような発言をされています。

「この社会的という概念が日本では、歪んできたと思います。ドイツ語でゲゼルシャフトリッヒであるわけですが、ゲゼルシャフトは、日常語ではまあ社会ということばとおなじ意味で、テンニースがいうゲゼルシャフト、ゲマインシャフトという区別は、広くヨーロッパ人に共通な文明史観が生んでいる概念であるわけです。マルクスもこのような文明史観とそこから生まれでる概念を共有しています。現在あるような私的個人、私的所有者の契約的結合体がマルクスのいう社会なのです。そういう状態を本来のゲマインシャフトにすること、マルクスの用語でいうとドイツ語のゲマインに、フランスのコミューンにすること、これがマルクス主義であると思います。」

 どうですか? カワセンさんもこのように考えておられるのではないですか? 上の発言をまとめると、現在ある市民社会をマルクスはゲゼルシャフトと呼んでおり、これを否定してゲマイン(コミューン)を復活させようとするのがマルクス主義である、ということになります。
 ところが、マルクスは「ヨーロッパ人に共通な文明史観が生んでいる概念」を共有していない、ということをエンゲルスが『資本論』英語版への序文において明言しています。

「とはいえ、われわれが読者にたいして取りのぞいておくことができなかった困難が一つある。すなわち、ある種の用語を、それらが日常生活で用いられている意味と異なるばかりでなく、普通の経済学で用いられている意味とも異なる意味に使用していることがそれである。しかしこれは避けられないことであった。科学上の新しい見地は、いずれも、その科学の術語における革命を含んでいる。」

 そこで、マルクス・エンゲルスの著作の中で、明確にゲゼルシャフト(リッヒ)を概念化している箇所がないかと探してみると、唯物史観が初めて提出された『ドイツ・イデオロギー』に行きつきます。

「生活の生産ということは、労働における本人自身の生活にせよ生殖における他人の生活の生産にせよ、その都度すでに直ちに二重の関係として──つまり、一面では自然的な関係として、他面では社会的(ゲゼルシャフトリッヒ)な関係として──現れる。社会的というのは、いかなる条件のもとであれ、いかなる様式においてであれ、またいかなる目的のためであれ、ともかく、複数個人の協働ということの謂いである。」

 『ドイツ・イデオロギー』だけを読むと、何をわざわざ断っているのだろう、と少し疑問もでてきます。しかし、先の『資本論』英語版への序文を踏まえると、なるほど、マルクス・エンゲルスはゲゼルシャフトという言葉を、日常語でもなく、ヨーロッパ人に共通でもない、独自な概念として設定したのだな、と納得できます。
 すなわち、ゲゼルシャフトとは、人間は対象化した労働を相互に交換することによって生活するという、人間社会の一般的なあり方を問題にするときに成立する概念なのです。ゲゼルシャフトとは社会一般を指す言葉なのです。
 従って、ゲマインも、コミューンも、市民社会(buergerlich Gesellschaft)も、すべてゲゼルシャフトの特殊なあり方、ということになります。果物といってもリンゴもあればメロンもあるように、ゲゼルシャフトといっても市民社会もあればコミューンもあるのです。
 マルクスのいう社会革命とは、gesellschaftliche Revolutionではありません。これだと、「複数個人の協働」自体を否定することになってしまいます。つまり、人間としての生活をやめることになります。マルクス主義が志向するのは、社会革命=sozialer Revolutionです。これについては、話が拡大しすぎるのでやめておきます。
 『フォイエルバッハ・テーゼ』を読めとのご忠告、私は平田氏にこそ言ってあげてほしかったです。第10テーゼに曰く、

「古い唯物論の立場は『市民』社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会または社会化された人類である。」

 因みに、私がふれた内容は、古い唯物論にもマルクスの唯物論にも共通のものです。つまり、唯物論一般について述べたのです。従って、これをもって私の立場が古い唯物論である、とはいえません。
 「呼び捨て」については、これで全人格を否定するつもりは全然ありません。しかし、そのような受け取り方もあることを知ったので、今後は気をつけます。