かなり具体的に引用をされている点には敬意を表したいと思いますが、今回のJ.D.さんの文章は私にとって何度読んでも理解しがたい内容をもってます。論ずべきテーマと、それに対応した引用部分、J.D.さんによる批判と解説、それらがいずれも私の問題関心と微妙にズレていて、どう考えたらよいのかしばらく迷いました。一応の結論を下すことが出来ましたので、感想を書き込んでおくことにします。
ここでの主要テーマは、平田清明氏のマルクス理解が正しいのか、マルクスとエンゲルスをヨーロッパ文明の知的伝統の中にどう位置付けるのか(特に、「社会」認識をめぐって)、といったことだろうと思います。まず、平田氏の引用部分ですが、これはどのような文脈で言われているものなのか分からないのですが、そもそもテンニースの類型でもってマルクスの社会認識を理解しようという方向性に問題があるように思います。ただ、よく読んでみると、日本における「社会」概念の歪みの指摘を、テンニースの有名な、ゲゼルシャフト・ゲマインシャフトの類型でもって説明し、その類型でマルクスの意図を説明すると・・・という図式になっています。だから(当たり前のことですが)平田氏はマルクスの社会認識をテンニースの類型でもってすべて解き明かせるとしている訳ではないのですね。したがって、
上の発言をまとめると、現在ある市民社会をマルクスはゲゼルシャフトと呼んでおり、これを否定してゲマイン(コミューン)を復活させようとするのがマルクス主義である、ということになります。
とは必ずしも言えない。ゲゼルシャフト・ゲマインシャフトの類型はテンニースのものであって、マルクスのものではありませんから、そうした図式にマルクスを当てはめようとするのは無理があります。そのように勘違いさせかねない曖昧さが平田氏のこの引用部分にはあるのですが、ただ無理を承知であえてやるとしたら・・・という限定の上でなら、ここで氏が言わんとすることの大筋は正しいように私には思われます。
さて、より問題は、J.D.さんによるここ以降の主張の論理構成なのです。この平田氏の引用部分でもって、J.D.さんが言いたいのは、「平田氏はテンニースを紹介して、マルクスも「広くヨーロッパ人に共通な文明史観」の中にいるんだ、と言っているが、それは違う」ということのようです。違う「証拠」はエンゲルスの「『資本論』英語版への序文」です。この場合は、マルクス=エンゲルスと言っていいでしょうから、「本人」の主張だけで反論になり得るのでしょうか? どんな学者でも芸術家でも、自分(たち)の仕事は「独自のものであり、これまでになかった個性的なものである」ぐらいの自負がなければ、歴史に残る立派な仕事は成し得ないことでしょう。しかしながら、ことは本人の自覚や意図の問題ではありません。
欧米の学界では、日本とは大違いで、ソ連・東欧の崩壊以後もマルクス研究が広く行なわれ、進展していると伝えられています。それはヨーロッパ文明の知的伝統の流れの中で、最も優れたものの一つとしてマルクスをきちんと位置付けているからこそです。別にマルクスの思想を「比較を絶した、万能の思想」「歴史上類例のない偉大な知」として扱っている訳ではないのです。あなたがそのように思い込みたい気持ちも分からないではないですが、そうしたマルクス(主義)観を一刻も早く脱してください。そうでないと、なかなか論議にはなり得ません。
なお、ごくごく常識的なことを言っておきますが、歴史的に培われてきた言葉を自分(たち)独自の意味付与で勝手に使っていては、理解されるのはセクトの中だけ、ということになってしまいます。マルクスの思想は陰謀家集団のイデオロギーではありません。欧米の学界で通用しているマルクスは普遍的な価値のあるマルクスなのです。それと、また誤解があるかもしれませんが、日常的に使われている言葉と、学術用語とは確かにそのままではないかもしれません。しかし相反するものでもないでしょう。そのようにアカデミズムと、普通の人びとの暮らしとを断絶してしまっていいものかどうか、も分からないところです。また、マルクスの思想はそんなにアカデミズム・オンリーのものなのでしょうか?
平田氏については、どうも歪んだ理解しかされていないようです。戦後日本マルクス主義研究史における氏の意義は、(以前にも紹介しましたが)『市民社会と社会主義』(岩波書店・1969年)にあります。いまは十分詳しく説明できませんが、氏の主張の意義は、従来の「国家(プロ独)による社会主義化」路線へのオルタナティブとして、市民社会の評価、国家の市民社会への再吸収、所有や「個」概念の再考にもとづく「個的所有の再建としての未来社会」構想などにあります。当時もその後もいろいろと論議を呼んだ内容であり、現在のアソシエーション論にも通じるものがあります。平田氏批判をするなら、どんな本に掲載されたかも分からない出所不明で非本質的な引用でなく、こうした根幹的な部分からまずやっていただきたいものです。