「レーニンの実践はすべて正しかった?」
すいません。主に真理論を念頭に置いて発言しました。具体的なところは検討不足ですので、これから勉強します。「すべて」とは考えていません。
私がいいたかったのは、レーニンは理論家というよりむしろ実践家であった、ということです。
「ということは、あなたは観念論者のヘーゲルを最も評価しているのですか? 」
そうです、学者としては最も評価しています。一つ例を挙げると、マルクスのいわゆる「唯物史観の定式」とヘーゲルの『歴史哲学』を比べれば、だいたい感じがつかめると思います。
「この文章は、階級がなくなれば、国家の存続意義がなくなるということでしょう。つまり1.国家消滅論です。あなたが書いているのは、2.教育によって犯罪者を出さなくしてから、みんなの力で国家を廃止する可能性があるという国家廃止論です。だから修正主義者J.D.氏と言っているのです。 」
国家を他のあらゆる存在と同じように弁証法的に、いわゆる「自然史過程」として捉えると、それは生成し、発展し、やがては消滅する、といえます。エンゲルスは『空想から科学へ』で、国家をこのような側面から捉えていますので、国家死滅論(消滅論)といえます。
一方、国家の死滅過程を革命主体の側から論じるならば、それは国家を止揚するという問題になります。すなわち、国家止揚論です。私は以前、このように革命主体の側から論じたわけですし、この国家止揚論を具体化したのがレーニンです。
同一の過程を取り上げても、見る角度によって異なった把握の仕方ができるのであって、そうしたからといって、修正ということにはなりません。『資本論』の例でいえば、資本主義社会においては、商品の生産過程は、労働過程として捉えることもできるし、価値増殖過程として捉えることもできるのです。
「だから、20世紀のマルクス主義政党が国家権力を握った国々での対内の現実は、全く理論と違っていたじゃないかと。」
何度もいいますが、プロレタリアートが国家権力を奪取しても、それは社会主義革命ではありません。社会主義革命はまだ地球上で起こっていません。また、私が世界革命の際問題となると考えている「国家」とは、国家権力のことではありません。
「マルクスから死後100年以上経ってるのだから青写真を描いていただきたい。」
もちろんそのつもりです。そのために私は勉強しているのです。青写真を描かない限り、共産主義社会というのは、単なる空想になってしまいます。だからこそ、青写真は描かないが、共産主義の理想は掲げる、という今の共産党の路線に疑問を抱いているのです。そんなことでは何の説得力もないのです。
「私は、あなたほど一人の人間の思想を絶対視しませんので、この議論の方が相対的に正しいのではないか?と考えているわけです。」
私は、束になってかかってもかなわない人間というのは確かに存在する、と考えているわけです。
ベルンシュタインについては、ほんの少ししか知りませんので、今は何ともコメントできません。そのうち勉強してみます。