2000年9月19日付の「しんぶん赤旗」に不破氏の著作<『レーニンと資本論』第6巻「干渉戦争の時代」へのまえがき>が転載されていました。不破氏の一連の著作に対する検討や批判を全面的におこなうことは、私がおかれている生活環境が許しません。ただ、この「まえがき」の中で、どうしても見過ごすことができない部分があります。この点についてだけ投稿します。
<不破氏の著作の「まえがき」からの引用・記事の上から3段目後半より>
…これらの誤りの内容、またどうしてその誤りがおかされたのか、などの研究に、多くの努力をそそぎましたが、この時期の苦悩と困難に満ちたレーニンの演説や論文を読みながら、この時代が、レーニンの全生涯のなかでも、理論的にもっとも″荒れた″時代であったことを、思わざるをえませんでした。
若い時代から『資本論』の研究にあれだけのエネルギーをつぎこみ、その豊かな内容をロシア革命の実践に生かしてきたレーニンが、″マルクスは、その生涯とその文筆的生涯の大部分、その科学的研究の大部分を、自由、平等、多数者の意志を嘲笑することにささげた″などと説く(「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」一九一九年五月、全集29巻350ページ)。私は、この文章を、レーニンの理論的な″荒れ″のきわめて象徴的な表現として、受け取りました。 *太字は引用者。
ほんとうはこの演説全体を読んでいただくのが一番いいのですが、全部を引用することはできませんので、『レーニン全集』29巻350ページから2段落だけ引用します。
検討してみたまえ。検討する必要があるのだ。純粋の民主主義者が純粋民主主義を宣伝して、それを簒奪者から擁護しているという点に、ほんとうに彼らの罪があるのか、それとも、彼らが有産階級のがわ、コルチャックのがわに立っているという点に、彼らの罪があるのか?
自由から検討をはじめよう。いうまでもなく、自由は、社会主義革命であれ、民主主義革命であれ、いっさいの革命にとって、非常に重要なスローガンである。ところで、われわれの綱領は、もし自由が資本の抑圧からの労働の解放と矛盾するならば、その自由は欺瞞である、と言明している。そしてマルクスを読んだものならだれでも、──マルクスの一般向きの叙述を一つでも読んだものならだれでも、とさえ私は考えるが──マルクスが、その生涯とその文筆的労作の大部分、その科学的研究の大部分を、まさに、自由、平等、多数者の意志を嘲笑することに、こういうものを誇張したいっさいのベンタム流の人たちを嘲笑することにささげたこと、またこういう空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明にささげたことを、知っている。
不破氏が引用した部分だけを読むと、あるいは、レーニンが「マルクスの著作や生涯は自由、平等、多数者の意志を嘲笑することに捧げられた」と述べているかのような──実際そう述べているのですが、──印象を受けます。しかし、この演説全体を読まなくても、私が引用した、たった2段落だけをみても、非常に異なる印象を受けると思います。
ここでレーニンが述べている「自由、平等、多数者の意志」というものが、どのようなものであるかということです。
「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」は、短い前書きを除くとⅠ~Ⅴに分かれています。不破氏が引用した部分はⅢにあります。この冒頭で、レーニンが名指しで批判しているのはカウツキーです。レーニンによれば、(カウツキーは)「ボリシェヴィキは民主主義を破壊する方法を選んだ。ボリシェヴィキは独裁の方法を選んだ。だから、彼らの事業は正しくない。」と言ってボリシェヴィキを批判したといいます。これに対して、レーニンは「われわれは自由、平等、多数者の意志というような聞こえのよいスローガンで自分を欺くものではない。」と反論し、さらに「民主主義者、純粋民主主義の支持者、徹底的な民主主義の支持者と自称して、民主主義を直接あるいは間接にプロレタリアートの独裁に対置する人々を、われ
われはコルチャクの助力者としてとりあつかう」として、自らの立場を明確にしています。コルチャクとは、英・仏の協力のもとに反革命武装闘争をした首領格の人物(巻末の人名訳注による)です。レーニンは、「自由、平等、多数者の意志というような聞こえのよいスローガン」をかかげる人たちが、実は「民主主義」の擁護者ではなく、彼らが有産階級の側、コルチャクの側に立ち、そのために「自由、平等、多数者の意志というような聞こえのよいスローガン」をかかげているのであるとして、激しい言葉で糾弾しているのです。このことは、この演説の題名が「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」となっていることからも明らかでしょう。
不破氏が引用した部分だけをみれば、この当時のレーニンが、「自由、平等、多数者の意志」を嘲笑するためにマルクスを引きあいにだした、という印象が避けられませんが、このレーニンの演説全体を読めば、決してそうではないことがわかります。レーニンはさらに、「イギリス、フランス、アメリカの紳士諸君、君たちの自由が資本の抑圧からの労働者の解放に矛盾するのであれば、君の自由は欺瞞である。文明的な紳士諸君、君たちは小さなことをわすれている。私的所有を法制化している憲法のなかに諸君たちの自由は書かれているのだということを、君たちははわすれている。まさにこの点に、問題の核心がある。」と反論し、所有の問題と自由が切り離すことができないものであることを説いています。
レーニンは、たとえば集会の自由について、次のように述べています。要約します。「集会場があっても、これが貴族と地主の所有物であるときに、「集会の自由」を言葉の上で保障したところで何の意味があるだろうか。われわれは、この集会場をまず労働者団体の建物にして、そのあとで集会の自由を口にするだろう」。
もう一つ、レーニンが平等について述べているところを要約して引用します。「60人の農民と10人の労働者がいる。農民はぼろを着て歩いているが、穀物をもっている。労働者は、帝国主義戦争のあとでは、ぼろを着ており、苦しみぬいており、穀物も燃料も原料ももっていない。両者は平等なのか。60人の農民が決定権をもち、10人の労働者は服従しなければならないのか。なんと偉大な原則であろうか。平等、勤労民主主義派の統一、多数者の決定という原則は!」。レーニンが嘲笑した「多数者の意志」とはこのようなものです。
レーニンは農民に対して、労働者との同盟の道を選び、ソビエト権力を守るように訴えます。「農民は、冷静な、実務的な人間であり、実際生活の人間である。彼らには、簡単な、日常生活の実例によって、問題を実際的に説明してやらなければならない。余剰の穀物をもっている農民が、その余剰を隠匿し、価格が投機的なばか高い値段に騰貴するまで待ち、飢えている労働者のことを考えに入れないことは、正しいであろうか? それとも、労働者がにぎつている国家権力が、余剰穀物の全部を、騰貴価格によらず、暴利商人的価格によらず、略奪的な価格によらず、国家の決めた公定価格で取り上げることが、正しいであろうか。」(全集29巻・「演説『自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞』の出版のさいの序文」378ページ)と訴えています。レーニンが、この文献で攻撃した「自由」とは、都市労働者はじめ多くの人々が飢えて死なんとする、まさにそのとき、富裕な農民、クラークが「穀物を隠匿し売ることを拒否する自由」にほかなりません。
レーニンが嘲笑した「自由、平等、多数者の意志」とは、私たちがこの言葉から連想する「一般的なもの」ではなく、上に引用したように歴史的、具体的なものであり、しかも、「自由、平等、多数者の意志」のスローガンをかかげる人々はそのスローガンのもとに、プロレタリアートの権力を転覆し、資本家と地主の権力の復活に味方するものであるということがわからない「紳士諸君」を「嘲笑」したのです。レーニンは、「書物を見、書物を暗記し、書物を繰りかえし読んだが、書物の中味をすこしも、理解しなかった」これらの「紳士諸君」を嘲笑しているにすぎません。
この「演説」(全集29巻)のあとに、これが出版されたときの序文「演説『自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞』の出版のさいの序文」があります。この中で、レーニンは、ブルジョア共和国における自由や平等とは「商品所有者の平等と自由、資本の平等と自由の表現以外のものではありえなかったし、またかつてあったことはないということ」であり、ブルジョア共和国における「自由や平等」が労働者にとっては形式的なものにすぎない、ということを述べ、さらに、このことは社会主義のイロハであり、これを忘れて「自由」、「平等」、「勤労民主主義派の統一」という空文句でお茶をにごすことができる、「教養ある」紳士諸君は「馬鹿者と裏切者だけで」あり、このイロハを理解しないものはマルクスも社会主義もまったく理解していないことだ、として嘲笑しています。同じような内容は、私たちがマルクスやエンゲルスの著作を読むとしばしば目にするものであり、非常によく似た「トーン」の文章
にであうことはめずらしくありません。
このような資本主義的な「自由や平等」に対する厳しい批判的見地は、マルクスやエンゲルスの思想と異質なものでしょうか。このような紳士ぶった「『自由と平等』の抽象的な理解」をマルクスやエンゲルスは嘲笑しなかったでしょうか。マルクス・エンゲルスとレーニンの思想の間に高い壁を築こうとする不破氏の試みは、私には成功しているようには思えません。
このような脈絡において書かれた文章全体から、「マルクスは、その生涯とその文筆的生涯の大部分、その科学的研究の大部分を、自由、平等、多数者の意志を嘲笑することにささげた」という部分だけを取り出して、紹介することが公平なことでしょうか。理論作業をするときに、「事実にもとづき、真実を隠さない」という態度は、最低限不可欠なことではないでしょうか。
不破氏の著作の中に、このような恣意的な引用があることを私は指摘しておきます。そして、それは、不破氏の一連の「レーニン批判」は、このような事実に基づかない基礎の上に築かれているということを意味しています。
今日では、『マルクス・エンゲルス全集』も『レーニン全集』ももはや絶版となっています。主要な著作は、今日でも単行本として手にすることはできますが、不破氏が引用した文献は、おそらく全集にしか載っていないでしょう。どうか、不破氏の一連の「レーニン批判」をお読みになるときには、お手数でしょうが、原典にあたられることをおすすめします。
不破氏は、この文章からレーニンの理論的な「荒れ」を感じ取ったとしていますが、私はどうしてそのような「理論的な荒れ」を、不破氏が見いだしたのかどうしても理解できません。レーニンのこの著作を読んで、資本家やその政治的代理人たちが「この上ない不快感」を感じるのはわかりますが、日本共産党の委員長が「理論的な荒れ」を感じ取ったのはなぜでしょうか。
私は、むしろ、不破氏の「まえがき」から、現在の不破氏の理論的な「荒れ」を感じます。これらの「レーニン批判」は、不破氏と志位氏の主導のもとに行われた七中総の諸決定と表裏一体をなすものと私はとらえていますが、今、不破氏の「レーニン批判」に深く立ち入る余裕はありません。自覚的な日本共産党員が直面している課題は第22回党大会です。この大会は、日本共産党が日本共産党であり続けるかどうかを決定づける歴史的な大会になるでしょう。私たち一人ひとりは、だれでも大したことはできません。それでも、私は自分には何ができるかをよく考えて、できる限りの努力をするつもりです。大会代議員選出のシステムを考えると、見通しは決して明るいとはいえませんが…。不破氏の恣意的な引用のおかげで、私は「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」を読みました。その中の一節を紹介してしておきます。
敗北の危険をおかさないような革命はなかったし、現にないし、将来もないであろうし、またありえない。……革命は、それが搾取に重大な打撃をくわえる先進的な階級を前進させるばあいに、勝利するからである。こういう条件のもとでは、革命はたとえ敗北をなめるときでも、勝利する。(『レーニン全集』29巻371~372ページ)