この間、しばらく絶望的な想いで、このウェブを拝見してました。
党中央による、極めて政治主義的な「柔軟」路線への転換指向、それを「民主的でない」と批判する側は、党中央と同等か、あるいはそれ以上の教条的革命幻想に取りつかれている人たちしかいない現実。これでは、現実主義的な改革政党に転換し、日本社会の構造改革に参与できる政党に変わってもらいたい、という日本の多くの市民の願いに共産党が応えられない現状はいつまでも続いてしまうことでしょう。20世紀における人類の体験がまるで存在しないかのように、19世紀の共産主義理論とその革命幻想にいついつまでも固執している人たちの精神と頭脳の構造は、私には理解しがたいものがあります。そんな頑迷な人たちが存在していること自体不思議ですし、このIT時代にインターネットでそんな「理論」を表明していること自体滑稽でもあります。だから、もうほとんど発言などは無駄でもあり、やめておこうと思ってましたが、「さざ波通信」第17号「雑録-1」後房雄教授「批判」のあまりのひどさには一言申し述べておきたく、キーを取ることにしました。多少、関連して書いておきたいこともあり、少し続ける(連載)ことにします。
まず私の後房雄氏評価ですが、ほとんどその主張に賛成しております。氏の主張どおりに日本の政治文化が変わっていくことこそが、日本の市民多数にとっての幸福への道であるというふうに思ってます。さて、今回の「批判」ですが、まず、現物の『世界週報』を見てないので、よく分からないのですが、何か他の方が「後氏がこう言っている」と引用した、その文章を対象として挙げられているようです。「批判」する場合は、もう少し何と言うか、対象者の主張の全体をよく読んでその趣旨を理解するようには出来ませんか? 二重引用なんて、みみっちいことはやめてもらいたいものです。どうも、初めから後氏の主張を否定するためだけに妙な「コメント」を探し出しての「批判」であるように感じました。その「批判」によると、後氏の主な主張は、
「現在の党指導部が上からの強権的改革を進めている」(A)
「新しい党規約でも「反対意見の党外への発表」が禁じられているので、党内民主主義は不徹底」(B)
「その党内民主主義を主張する党員たちは、ほとんど従来路線を堅持すべきだという左からの批判派ばかり」(C)
ということで、(C)→(A)に因果関係があるということです。
「批判」は、(A)のほうが(C)よりもスタートが早いことをもって、後氏の主張するような因果関係は成立せず、その主張は間違いである、そして、後氏の主張が「不破指導部の強権主義を弁護する」ことになってしまってます(あれ? (B)は忘れてしまった?!)。ここでの「批判」は(C)→(A)の因果関係を崩すことに力点が置かれており、結論としては「原因と結果が、後教授にあっては完全にひっくり返っている」ということになるようですが、もともと、そんな因果関係を後氏は主張していないのですから、これはナンセンスとしか言いようがありません。
自分で勝手に「ひっくり返」しておいて、「ひっくり返っている」もないものです。批判対象の主張を捻じ曲げ、言ってもいないことを言ったように、あるいは軽重を無視して、勝手に決めつけ、飛躍の多い結論をぶつけて論難するのは、「さざ波通信」編集部が批判している党中央のやり方によく似ていませんか。
私は先月あるシンポジウムで、日本共産党の「転換」の現状について後氏の見解を直に聞く機会を得ました。
その際の氏の主張は確かに上の(A)(B)(C)におおよそまとめることが出来るものに相違なかったのですが、これらは並列関係にあり、その間に因果関係などを主張されてはいませんでした。ただ、「さざ波通信」派的に何らかの主観でもって読めば、そう読み取れないこともない、そういう表現だった可能性はないとも言い切れません。しかしその場合でも、氏の主張のメイン部分についてきっちりと検討しようとしないがゆえに、そのような主観主義的な対応しか出来なくなるのはありませんか。
氏の主張の根底にあるニュアンスをきちんと受けとめれば、おそらくはこういうことになりましょう。
「旧来の思考の古典左派ではない、現実主義的な左派が党中央の反民主的姿勢に対して、民主主義を掲げて批判するのなら、日本の共産党もイタリアの旧共産党のような「大転換」が可能となるが、残念ながらいまのところそうなっていない。だから、あまりどちらにしてもあまり期待は持てない」
「批判」者は後氏の主張をおかしなふうに捻じ曲げ、勝手にデッチ挙げたどうでもいいことを一所懸命に「立証」し(ここでは因果関係の不可能性)、もって「批判」の完成、などと思い込むべきではなかった。後氏の主張に本気で反論するなら、あなた方が党中央と異なる、どのような日本社会建設のビジョンをもっているのか、そのために党をどのように変革するのか、そこをこそ提示すべきです。後氏の主張は、(あなた方は否定したくして仕方ないのでしょうが)妙な「因果関係」で片付けられない豊富な内容をもっています。おかしな「因果関係」をデッチ挙げたうえ、以降はただただそこをだけ突いての「論理」展開には、あまりに貧しい精神を感じざるを得ませんでした。民主主義や、小選挙区制についてはまた後日。