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「科学的社会主義」討論欄

「さざ波通信」第17号「雑録-1」後房雄教授「批判」に反論する(3)

2001/1/9 カワセン

 世紀をまたいでの投稿、今回で最終回にします。出来ればレスをいただきたいところです。

 さて、最後は小選挙区比例代表並立制という議会制民主主義における選挙制度への見方をめぐって、です。あなた方は小選挙区制を「民意の反映」が出来ないので「反動的」である、と主張されているようですが、この「民意の反映」とはどういうことでしょうか。そもそも、代議制システムを採用している以上、市民の意見を「そのまま」議員数に反映することは不可能です。「そのまま」反映しようとするなら、それは「代議制」でなく「直接」民主主義を採るしかありません。しかし、現代の文明社会においては「直接」は不可能であり、代議制を選択するというのが当面の次善の策として定着しているのです。ここでは、そもそも「民意」というものを把握可能である、とする発想そのものを疑ってかかる必要がありましょう。つまり、あなた方の発想には、こういうことがありませんか? 「民意」は把握可能であり、それはプロレタリアートの「前衛」である共産党が「科学的社会主義」でもって把握するのだ、だから自分たちの独裁を行なうのが「民意」にかなっている、という「論理」構成なのでしょう。代議制民主主義そのものを否定する「プロレタリアート独裁」路線を容認しておきながら、議会制民主主義のもとでの一選挙区制度について「民意の反映」うんぬんでもって否定するのは、おかしなことです。「プロレタリアート独裁」路線を明白に放棄し、議会制民主主義路線を選択するとしたうえで、その部分的不合理を問題にし、よりよい仕組みに変えて行こうとするのなら、まだ分かります。しかし、そうでないのだからおかしなことになるのです。つまり、私から見ると、そもそもの議論の仕方がその出発点においてねじれているように感じられます。
 日本でもイタリアでも戦後の大部分、市民の議員選択を「そのまま」(に近く)反映させた「中選挙区制」が続き、長期政権の座にある政権党の腐敗という現実が生れていました。そのような中選挙区制の欠陥を乗り越えるべく、イタリアでは左翼民主党が大変な論議を経て、選挙区制の改革に踏み切ったのであり、そのこと自体は「反動」でも何でもありません。同党も、旧来の「左翼」の「伝統」として「小選挙区制反対」ということが言われてきたことは、重々承知のうえで、厳しい党内論議を経て路線を転換していったのです。そうした同党の苦闘に学ぼうともせず、このような発想の転換へのケチつけをするのは、最も「保守反動」的な態度としか言いようがありません。同じような中選挙区制の弊害が続いていた日本で、先行して改革をしたイタリアを教訓とするのは、何ら間違ったことではないでしょう。ドラスティックな政権交替が可能な民主主義システムこそ、本当の民主主義なのであって、小選挙区制は民主主義に矛盾するものでも何でもありません。また、これは教条主義「左翼少数政党」を排除するなどというケチな目的で導入されたものではありませんし、選挙制度改編によって「左翼政党を改良主義政党に「改革」」など出来るわけもありません。教条主義「左翼政党」の現実的改革政党への転換は、教条主義「左翼政党」内部の党員自身が現実に目覚め、真の改革精神を抱いて、19世紀革命幻想から自らを解き放ってこそ可能なのです。もっとも、いまだに革命幻想を抱き、法の支配に反抗しようとする「政党」に対し、市民社会を代表する民主主義の党が警戒心をもって、このような党の排除と根絶のための措置を採ろうとすること自体は極めて当然のこととも言えます。それが嫌なら、あなた方も民主主義に参加するよう努力すべきなので、恨むのは筋違いと言うものです。
 なお、「社会主義派は再びその民主主義的権威を取り戻すだろう」というのは訳の分からない「宣言」です。「社会主義派」が民主主義の破壊者だと明らかになったのが20世紀の経験だったのではないのでしょうか。迫られている日本社会の構造変革に、敵対し、いつまでも「昔の夢」を追うのでなく、地に足つけた発想に自らを成長させていっていただきたいものです。現実的改革派への転換は決して、「右派」への「転落」ではありません。何ら恥じることはない行為なのです。それは、マルクス主義もその理念の一部(あくまで一部)として採り入れるような、そうした現実路線なのですから。日本共産党を現実的な改革政党へと転換させようとする党員の皆さんの将来の可能性に私は賭けてみたい想いでいっぱいです。民主主義左派の形成を心から期待して、キーを置きます。