「コミュニストとして」の討論の座標軸を確立しよう(第1回)
序:このサイトでは「コミュニスト」としての討論が行われているのだと思う。それに間違いがなければ、コミュニストはどういう座標軸を持っているのか、を再確認せねばならぬ。いうまでもなく「唯物論的弁証法」だろう。ではこれを現代社会問題に適用するときの原点0とは何か? ソ連崩壊と共にスターリンはいわずもがなレーニンの哲学が晒し台にのっているとき、これをつかみなおそうではないか。私の提言は以下の通りである。
第1項 原点0:コミュニストは「党」を必要とするか?
結論は、必要としない。
理由は、コミュニストの哲学は特殊な一党一派に奉仕する特定の世界観ではなく、客観的世界を全面的に反映する真理を対象とするものだからである。
文献的根拠は、「共産党宣言」第2章「プロレタリアとコミュニスト」冒頭の文章―いわく「どのような関係において、コミュニストは、全体としてプロレタリアを支持するか ? コミュニストは、他の労働者階級の諸党に対抗して別途の党を形成しない。」とある。この部分の日本語訳を岩波文庫本でみると「共産主義者はプロレタリア一般に対してどんな関係に立っているか? 共産主義者は、他の労働者党にくらべて、特殊な党ではない。」(57p)とある。これは誤訳も甚だしい。参考に英文を掲げておこう……In what relation do the Communists stand to the proletarians as a whole? The Communists do not form a separate party opposed to the other working-class parties.
考察 故に、レーニンのボルシェビキは、マルクスの世界観とは縁もゆかりもない私党にすぎなかった、ことを反省的に認識するところから、真のコミュニストとしての討論が始まるはずである。ここから日本共産党をも照射しなければならない。(以上第1回)