大歩危さん、改めてこんにちは。
今度は「革命」という概念についてです。あらかじめ断っておきますと、私はこの社会科学的な概念について造詣が深いわけではありませんので、敢えて何ほどかの発言を出来るような資格があるとは思っていないのですが、いまの時点で言えそうなことを少しだけまとめてみました。
大歩危さんは、一方で、Arnoldさんが革命概念に固執しているとの批判をされていますが、他方で日本共産党が「日本独自の共産主義を目指ざそうとしていたのは、先見の明と評価されてしかるべきです」と、共産主義そのものには必ずしも否定的でない言い方をなさっています。私には、共産主義を肯定しつつ革命を否定するということが理解できません。もし資本主義と共産主義の間の差異が単に量的なものでしかなく、完全に連続的なものだとするならば、それを「共産主義」と呼ぶ理由がどこにあるのでしょうか? そこに一定の質的な飛躍・断絶があるからこそ別の名で呼ぶ必要があるのではないですか? そしてそうした飛躍を起こすことものが、まさに「革命」と呼ばれるものなのではないでしょうか?
大歩危さんが革命に対して否定的なのは、おそらくそれを暴力革命と完全に等置されているからではないでしょうか。もし大歩危さんが「革命」という概念を、物理的な戦闘によって政府権力を奪取することとして理解されているならば、私もそうした革命には基本的に賛成できません。けれども「無血革命」という言葉もあるように、概念上、革命という術語が不可避的に「暴力」の契機を伴うわけではありません。
Arnoldさんその他の方々が革命概念の放棄を批判するのは、それが、一時的な支持や党勢拡大を目当てにして資本主義総体への根源的な批判の姿勢を放棄するものだとお考えになっているからだと思います。私もこうした方々と同じ問題意識を共有しています。革命概念を固持するか否かという問題は、現実世界に対する基本的な姿勢の問題なのではないかと思います。
なお念のために言いますと、原理的に革命を支持するということは、いつなんときでも決戦を唱える一揆主義のようなものとはまったく別のことです。そうした左翼小児病は、現実のリアルな階級関係や政治情勢を無視することから生まれるものです。
現実の政治的な戦術として、つねに「革命」を標榜すべきだとは私も思っていません。Arnoldさんとて同じだろうと思います。繰り返しになりますが、問題は、長期的な視野に立って、原理的に現実を批判する精神を内に持ち続けるかどうかということです。革命という概念を完全に放棄することは、資本主義というひとつの史的システムが永続的なものであるという前提に立つことを意味します。確かに革命概念を放棄して改良主義政党に転進すれば、一時的に支持を集めることはできるかもしれません。けれどもそれが長続きするとは思えません。Arnoldさんは日本社会党とイタリア共産党の例を挙げられていますが、実に教訓的だと思います。資本主義の矛盾が様々な面で浮き彫りになり、その乗り超えが再び真剣に検討され始めたとき、改良主義政党は端的にご用済みになるのではないでしょうか。
私は、いまの日本共産党の固有の価値とは、それがまさに「抵抗勢力」であるという点だと思っています。確かに多くの戦線で後退に後退を重ねているとはいえ、やはり依然として最有力な「抵抗勢力」であることは間違いありません。なぜ小泉の「改革」に抵抗できるかと言えば、革命という理念を背景にした歴史哲学があるからだと思います。そうしたものがなければあっという間に飲み込まれてしまうでしょう。いま、日本共産党が単なる改良主義政党へと転進するならば、もはや党に固有の価値はほとんどないと言っても過言ではないでしょう。これは政党のアイデンティティに関わる問題なのです。