菅井さんの問いにごく簡単に答えてみます。まず科学的社会主義に含まれる科学的知識の代表的なものとしては、社会についての一般論=歴史についての一般論であるところのマルクスの唯物史観、経済学の体系化に向けた端緒である『資本論』、マルクス・エンゲルスが残した政治学の断片的なヒントレベルの知識、エンゲルスの弁証法、レーニンの組織論などが挙げられると思います。ところが、こういった科学的知識は、自然科学のそれとは違い簡単には理解できません。こういった知識を自分のものとするためには、それなりの実力(マルクスのいう「抽象力」)が必要であり、それなりの研鑽が必要なのです。
それはともかく、ではそういった科学的知識がなぜ「われわれの社会主義の主張に不可欠」なのか。それは、対象の法則性に合致した働きかけをしなければ、その対象を変化させることができないからです。対象の法則性を認識の中にすくいあげ、体系化したものが科学ですから、科学なしには対象を思い通りに変化させることができないのです。
だから、政治革命を媒介とすることによって社会革命を成し遂げ、共産主義社会を創出することを究極の目標としている革命政党にあっては、政治や経済、権力や人間の認識といったものの法則性をしっかりと把握していなければ、それらについての科学を体系として把持していなければ、目標を達成することはできないのです。ここから私は、革命政党というものは、世界最高水準の学者を抱えているか、あるいは最低でも世界最高水準の学者の理論を使いこなせる理論的実践家を育てようとしているか、でなければならないと考えています。
ところで、エンゲルスは「自由とは必然性の洞察である」といっていますが、これは必然性=法則性をしっかりと理解していれば、対象を自由自在に支配できる、意のままに操れる、という意味です。共産主義社会とは「自由の王国」ですから、一人一人の人間が高度の科学を使いこなせるものとしてしっかりと身に付けている社会ということです。
マルクスもフォイエルバッハ・テーゼの最後に、哲学者は解釈してきただけだ、肝心なのは変えることだ、といっています。これは、普通いわれているような意味、すなわち理論よりも実践だ、という類の意味ではありません。対象の法則性をしっかりと理解していればその対象を変えることができる、もし変えることができないのであればそれは対象の法則性(=必然性)の洞察が不充分であるからだ、ということをいっているのです。
まとめると以下です。すなわち、「人間がその仕事に成功しようとするには、つまり予想した結果を得ようとするには、どうしても、自分の思想を客観的な外界の法則性に合致させなければならない。もし合致させないなら実践において失敗するであろう。」(毛沢東『実践論』)