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「科学的社会主義」討論欄

不破哲三氏の過去と現在の議論について(その1)

2002/8/12 岩本兼雄

1、はじめに
 私はかねがね不破哲三氏のレーニン批判(「レーニンと資本論」-雑誌「経済」に、1997年から3年間余にわたって連載された)に疑問を感じてきたのだが、最近、氏の著作を読み直してみて、率直に言って驚きの連続であった。その驚きの一部を書いてみることにする。
 何よりも、科学的社会主義の「本家」筋が、しかも、当時の日本共産党幹部会委員長がレーニンを公然と批判したことは、理論の発展にとって歓迎すべきことである。そして、このような批判が党内でも活発な議論を呼ぶことを願うものである。党内での活発な議論こそ、社会主義諸国が崩壊した今日、社会主義の再生にとって何より必要なことであろう。

2、ソ連崩壊の原因について
 崩壊したソ連について、日本共産党は、あれは社会主義とは無縁のスターリンによる専制国家であるとしており、また科学的社会主義に立脚する日本共産党とも無縁であると主張している。
 私にいわせれば、縁のあるなしでいえば、これほど縁の深かった国もないのではなかろうかと思うのだが、それはさておき、不破氏は今年1月6日から「赤旗」連載のインタビュー「21世紀はどんな世紀になるか」において、ソ連崩壊の原因の一つとして次のように述べている。

 「ソ連社会は”ともかく社会主義だった”という人が、よくその理由とするのは、生産手段を国家がにぎっていた、だから経済の型からみて社会主義だ、という議論です。しかし、国家が経済をにぎっていさえすれば社会主義なのか、社会主義の最大の経済的特質は生産手段の国有化なのか、というと、これは理論的にも、大きな間違いです。
 科学的社会主義の事業がめざす社会主義の目標とは、国家を経済の主役にすることではありません。『資本論』のなかで、マルクスは、社会主義、共産主義社会の話をいろいろなところでやっていますが、国家が中心となった社会といった描写はどこにも出てきません。
 マルクスが、社会主義、共産主義の社会を語るとき、経済の主役をになうのは、いつも「結合した生産者たち」です。生産者、つまり、労働者のことですが、生産にたずさわる直接の当事者が力をあわせて生産手段をにぎり、生産を管理する、これが、マルクスが描き出した社会主義、共産主義の社会の基本的な仕組みです。」

 つまり、不破氏は本来社会主義国はその生産手段と生産の管理を国家ではなく生産者にゆだねるべきなのに、ソ連はそれをやらなかった、だから、ソ連は社会主義国ではないんだと主張しているわけである。

3、不破氏の40年前の議論
 ところが、不破氏は40年前には、まったく反対のことを言っているのである。不破氏は1963年に「ユーゴスラビア修正主義批判」という論文を『前衛』誌上に発表した。この論文は不破氏の著作「マルクス主義と現代修正主義」(大月書店)に収録されている。
 ユーゴスラビア綱領(1958年採択)は社会主義諸国の経済に関し、二つの型が現存し、一つは国家管理のソ連型、もう一つは生産者管理のユーゴ型があるという。不破氏によればユーゴ綱領は次のようにいう。

「1、ソ連などの社会主義国では、生産手段の国家的所有を基礎にして、国家が経済生活全体を管理し指導する役割を果たしているが、これは、社会的所有の低次の形態であり、むしろ、国家資本主義の要素をなすものであって、発達した社会主義のもとでは、国家的所有が解体され、「より直接的なより真実の社会的所有」である、生産者自身による集団的所有におきかえられなければならない。」
「2、生産手段の国家的所有を基礎とした社会主義は、不可避的に、国家機関と官僚の手に強大な権力を集中し、労働者階級にかわって、官僚が国家を支配する「官僚国家主義」に到達する。個人崇拝、民主主義の侵犯、ヘゲモニー主義(他国を支配し搾取しようとする傾向)などは、この制度のもたらす必然的な産物である。」
「3、「国家の死滅」とは、政治的には、国家機関を漸次「直接民主主義」と「社会的自治」の諸機関でおきかえてゆくことであり、経済的には・・・国家的所有を解体して、経済生活から社会主義国家をしめだしてゆくことである。」

 ユーゴ綱領はこのように、社会主義国崩壊後の今日からみれば注目すべき見解をもっていた。
 そこで不破氏の批判を聞こう。

「このように、ユーゴ綱領が、ソ連・中国などの社会主義に対置して、ただ一つの真の社会主義として売り込んでいるユーゴ型社会主義とは、一口にいえば、社会主義国家なしの社会主義である。ユーゴの修正主義者たちは、しばしば、マルクス、エンゲルス、レーニンなどを引用することによって、自分たちの「社会主義」がマルクス主義の科学的社会主義の理論の正統な後継者であるかのようにみせかけようとしているが、このような欺瞞は、マルクス=レーニン主義の社会主義理論についてまったく無知なものにたいしてしか通用しないだろう。
 第1の問題は、生産手段の国家的所有を否定し、社会主義国家による「記帳と統制」をはなれて社会主義経済を建設しようとするユーゴ理論が、マルクス=レーニン主義をアナルコ・サンジカリズムの理論でおきかえるものだということである。
 社会主義が、高度に発展した生産力を基礎に、国民経済を単一の全体として管理し計画化することを要求する以上、生産手段を国家の手に集中し、経済全体の国家的統制と計画化をおこなうことは、社会主義経済の存立の基礎をなす大原則である。マルクスとエンゲルスは、科学的社会主義の最初の綱領的文書である『共産党宣言』のなかで、社会主義的改造の基本的な内容を簡潔に定式化して「プロレタリアートは、その政治的支配を利用して、ブルジョアジーからつぎつぎにいっさいの資本を奪い取り、いっさいの生産用具を国家の手に、すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中する」とのべている。」(不破「マルクス主義と現代修正主義」41、42ページ)

4、不破氏の過去と現在の議論
 さて、不破氏の二つの議論、現在と40年前のそれは、どのように考えても整合させることはできないのではなかろうか。
 むろん、40年前には社会主義国の崩壊など予想できなかったから、ここに書いたユーゴ綱領の注目すべき見解の評価は別として、①、社会主義社会における経済管理の基本は何か、という点と、②、それについてのマルクス、エンゲルスの見解はどうであったのか、という二つの論点に関しては、不破氏の見解はまったく逆であることは明らかであろう。
 40年前の議論からすれば、今年、正月の不破氏はアナルコ・サンジカリストであり、今年の不破氏が40年前の自分の議論を評価すれば「理論的にも、大きな間違い」ということになる。
 今日、不破氏が、マルクスはいつも「結合した生産者」を語ったとインタビューでいうとき、無人の野を行く風情であるが、40年前の議論をみると、別のマルクスが出てくるのでは颯爽とした風情も幻のごとくである。
 不破氏が過去と現在の二つの議論に架橋をしようとすれば、時代の変化を持ち出すしかない。国家に生産手段を集中し「記帳と統制」をはかることは社会主義国崩壊という現実によって否定されたのだから、40年前の議論は訂正しなければならない、とでもするしかなかろう。するとまた、40年前に不破氏が引用したマルクスもまた否定しなければならなくなるように思われるが、どうであろうか。
 しかし、ほかでもない『共産党宣言』の文章だぞ、これを否定するのか? ということになると、問題が大きくなる(マルクスは間違っていた!)から、不破氏の引用が間違っていたのだとでもするしかあるまい。

4、理論的にいえば
 実際には、どのように議論すべきであったのか、といえば、理論的には国家か、生産者かという2者択一の対立はないのであり、現実の経済管理システムとして両者をどのように組み合わせるかが問題であったにすぎない。資本主義国の国家独占資本主義という現実が形式の上ではその一例を提供していることを考えればわかりやすいであろう。
 あるいは、レーニンの有名な言葉を思い出してもよい。

「1918年になるころまでには、社会主義の二つの片われを、国際帝国主義という一つの殻のうちに、ちょうど未来の二羽のひよこのように、ならべて生み出した。ドイツとロシアとは、1918年には、一方では社会主義の経済的・生産的・社会=経済的諸条件の、他方では、その政治的諸条件の、物質的実現を、なによりもはっきりと体現した。」(「食料税について」全集32巻)

 むろん、どのように組み合わせるかは、現代的な問題(社会主義的市場経済・中国など)でもあるが、不破氏はこの点を忘れて(見ずに)、40年前も、現在も一面的な見地から、国家か、生産者か、という見地から議論をするから自分で自分を批判することになるのである。
 不破氏がなぜ、40年前も、現在も一面的な見地から議論することになるのかといえば、問題それ自体が要請する見地(ここでは両者の組み合わせ)からではなく、その時々の必要性から議論をするからである。40年前は構造改革論の元祖・ユーゴを批判する必要性から、今日ではソ連を社会主義から「無縁」とする必要性から。その結果、あれこれ述べているマルクスの言説のうち、その時々の必要性に合う言説を引用するということになり、マルクスを不破氏の「コンビニ」におとしめてしまっているのである。

6、何を学ぶか
 マルクス、エンゲルス文献についての博覧強記でつとに有名な不破氏の議論にも、このような議論があるのだということである。
 しかし、これだけではないということは、いずれまた述べるとして、ここにみられる不破氏のマルクスからの引用は、あれこれの文献を恣意的に引用しているということに尽きる。
 大事なことは、権威を無条件に信じることではなく、疑問に思ったことは納得するまで、時間を惜しまず、自分の頭で考え、調査、研究してみることである。
 社会主義諸国が崩壊し、共産主義の理想がユートピアになるどころか、地に堕ちたかにみえる現在、時代はマルクス、レーニンの時代とはまったく異なった様相を見せ、すべては暗中模索、すべての試みは歴史的にも新たなチャレンジという色彩を帯びてくる以上、指折り数えられる頭脳にすべてを託す他力本願では事態は如何ともしがたい。