訪中は誰の立場に立って行われたのか
不破哲三氏一行の中国訪問についてはその後「赤旗」に毎日のように喧伝されている。不破氏自身がルポライターとして毎日「赤旗」に書いているくらいだから、この訪中をよほど同氏が気に入ったからにちがいない。だが、立場が上であればあるほど、その人の自画自賛に敬服するような者はいないー「取り巻き」だけがそうしてみせるものだということくらいは、政治家として同氏は知らないのだろうか。こんな仕事は「赤旗」記者が十分にできるし、また本来するべき仕事なのである。党首として少し軽はずみではないか?この軽さは、同氏一行の訪問記事の随所に現れている。その中でも、9月15日付「赤旗日曜版」の記事は特に興味深い。一行(不破、筆坂、緒方の三氏)は断片的にだが無警戒に語っているから、読めば彼らの本音が伝わってくる。
1.「孵化園」の訪問
中国は米国のシリコンバレーのものまねをしているのである。そのシリコンバレーがIT不況下の現在どうなっているか、不破氏一行は知っているのだろうか。階級的・客観的・批判的分析抜きに社会現象を語るわけにはいかないだろう。相も変わらぬ先進科学技術の資本主義的開発と商品(資本)生産=搾取強化への応用は、結局過剰生産の形で懲罰を受けて昨今の世界的不況の原因をつくった。中国での「孵化園」の役割も、シリコンバレーの後を追う運命にある。
いや「孵化園」は資本主義的関係にはない、資本主義的に不可避な恐慌の種をまく宿命ではないというならば、その証拠を示さなければならない。労働者階級の指導者ならばそうして当たり前だろう。だが不破氏一行はそうしなかった。むしろ米国のものまねの賛美にとどまっているにすぎない。
2.日本側の対中投資の遅れをとがめる
「欧米の企業が遠慮なしに参入してきているのに、隣国の日本がうまく参入できなかったのは日本の経済界の大失敗」という意味は、中国に対する敵対心がそうしたといわんばかりであるが、事実はそんなに単純ではない。不破氏は日本の大小の資本がなぜ中国進出をためらうかをほんとうに知っているのだろうか?実は、日本の資本家の方が労働者階級の指導者であるはずの不破氏よりも労働者のことを考えているからなのである!労働者の立場では失業の危機であるが、企業の側では熟練労働者を失うことになるほか、外国で労務管理面でのリスクに直面することになる。さらに彼我に共通する国民経済上の問題点は国内労働者の購買力=市場の縮小である。
投資リスクは大丈夫だ、中国共産党が政権党として守ってくれるからとでも不破氏はいうのだろうか?しかし、中国共産党がエリートとして必ずしも中国の労働者の側に立っているとはいえないとしたらどうだろうか?いったい中国に共産党の管理から自由な立場で活動する労働組合があるとでもいうのだろうか。不破氏の眼中には、中国への資本逃避がもたらす国内の雇用不安に労働者がさいなまれていることも、中国経済の発展が中国労働者に対する搾取の激しさによって、その規模の巨大な広がりによって、さらにそれは同じ巨大な規模で農民がプロレタリア化することによって可能となっているのが目に入らないでいるのである。
「中国の人たちには、中国は発展した都市部とおくれた内陸部の格差がたいへん大きいから、北京や上海などだけを見て判断しないでくれ、今度来るときには、内陸部のおくれた地域の実態をよく見てほしい、ということを口々に言われました。機会があったらそうしたいと思っていますが、都市部でああいう活力をもって経済が発展している、その力があってこそ、経済の全体を持ち上げる基盤も生み出される。矛盾にみちた発展でしょうが、中国の経済がもっている発展力をよく見定めないと、日本の経済界も政界も、さらなる誤算をする可能性がありますよ。」
都市部の発展(富裕)と内陸部の停滞(貧困)が一体のものであることを中国の人々は感知しているのに、それに解明を与えるどころか、それをさらに推進せよと言っている。トウ小平並の資本主義的部門間不均衡の正当化論である。日本の経営者に日本よりも中国で投資を行えと言っているのも同じ論理の延長にある。これが不破流のマルクス「再生産と恐慌」の研究結果にほかならない。
3.現在の中国は何なのか?
「社会主義に到達してしまったら市場経済が不要になるのか、引き続き必要なものなのか。」「社会主義への到達」とは質的に何であるのかが語られていない。これだと現在中国は社会主義ではないということになるのだが、他のところでは「社会主義市場経済」だと言っている。平気で矛盾したことを言っているのだ。
「社会主義市場経済」という方針を決めて、それを実行しているのは中国の人たち」というが、「社会主義市場経済の実行」などと中国の人たち自身が本気で考えているだろうか。その証拠に、社会科学院の幹部の言として「中国では実践が先に立って理論化のプロセスが求められていた」と言っている。実践とは経済の動きが考える以前に先に立っていることを言っているのであって、資本主義経済の特徴であっても社会主義(計画経済)の特徴ではない。
「赤旗」の訪問レポートからは、中国の研究者等の多数がとっくにマルクス主義から離れてしまった事実がよくわかるとともに(これは研究者が進んでそうしたというよりも、むしろ「政権党」の指導とか圧力とかが研究そのものに影響を与えているのかもしれない)、同時にその研究者たちが、今では中国社会の変化と諸矛盾の拡大を前にして誠実にその事実を認め、科学的解決を求めているらしい様子も伝わってくる。
彼らが資本主義的イデオロギーの担い手に助言を求めるのではなく、マルクス主義者(と彼らが信じる人)に求めるのは、現代中国の諸矛盾を忌憚なく暴いた上でそこに流れる必然的な法則を語ってくれるのを期待しているからなのではないか。社会矛盾にかかわる客観的科学的研究こそは、独裁政権下の研究者が最もしにくいことなのである。彼らは彼らに代わって遠慮なく語ってくれることを不破氏一行に望んでいるのである。ところが一行が実際に行っている役割は、諸矛盾の敵対的性格を無視するか、ないしはそれを見ても糊塗しているのである。それでは政権党への「学術的装い」を凝らした政治的支援にはなっても、現代中国社会の問題解明のための客観的科学的貢献とはなりえないだろう。
4.文革とロシア社会主義革命を「市場経済敵視の時代」として同一視
「レーニンが市場経済を敵視する立場(戦時共産主義)から市場経済を積極的に活用する立場に・・・ロシア革命の現実にぶつかっていわば百八十度の転換をした」
この書き方はまるでレーニンが恣意的に市場経済を敵視したように描いているが、革命政府はロシア革命に対する列強の干渉軍とその支援を受けたロシア旧勢力の軍隊と内戦を戦わなければならないという現実に強いられて、農民が再生産に必要な農産物まで革命政府の軍と飢えた労働者のために徴発せざるをえなかったのである。この事実については、レーニン自身がくわしく書いている。(さらに、この政策転換には、ドイツをはじめとするヨーロッパ先進国での社会主義革命が見込まれた当時の条件とその失敗という条件という政治的軍事的「現実」があることも。)
不破氏は複雑な事柄を自己流に単純化しすぎている。「レーニンによってレーニンを読む」つもりなら、読者は厳密この上なく(しかも形式論理的な不破氏に対して弁証法を駆使して)書かれたレーニンの「食糧税について」(全集第32巻)を熟読玩味すべきである。不破氏がこの著述について触れないのは(不破氏が先行研究者の研究を正確に引用しようとしない習癖があるのはすでに暴露されているが・・・例えば「科学的社会主義」討論欄への川上慎一氏による2000/9/23の投稿)これを読者が読んだなら不破氏自身が反駁されてしまうだけの説得力があることを知っているからではないかと思われるほどである。
ロシア革命直後の社会的混乱と文革時の社会的混乱と同一視するに至ってはなにをかいわんやである。不破氏が「市場経済」を基準にして階級的意味がまったくちがう二つの混乱を非難するならば、おのずとその先に登場せざるをえない論理的帰結は、「ロシア革命はやるべきではなかった」か、少なくとも「時期尚早だった」であろう。
この考え方には思想的先輩が多く存在して、その中には有名なカウツキーが含まれている。長い間直接教えを受けてきたエンゲルスが亡くなった直後(3年後)にマルクス主義の古典的名著「農業問題」を著した若きカウツキーは、第一次大戦とロシア革命を経ると、見る間に思想的に年老いてしまい、生きたマルクス主義から急速に転落してしまった。私たちが現在ほんとうに研究しなければならないのは、マルクスやレーニンのどこがまちがっていたかよりも、せっかくの革命的成果を崩壊させてしまった、マルクス・レーニン主義から転落した指導者たちなのである。転落者たちに共通する特徴が「マルクス読みのマルクス知らず」だったことに、特に注意する必要がある。
5.「市場経済」至上主義
「学術講演」からしてそうであるが、テーマそのものとして使われている「市場経済」という概念というよりも通俗的表現に、どのような内容上の規定をしているのかがまったくわからない。不破氏によれば、「社会主義に到達してしまったら(この社会主義とはどの段階のことなのかわからないが・・・例えばこれだと「社会主義市場経済」を実施しているはずの中国は社会主義に到達していないことになる。)市場経済が不要になるのか、それとも引き続き必要なものなのか」と問題を設定、あとはムニャムニャにしているが、彼としては必要だと決めているのは、講演で「マルクスも「資本論」の中で「共産主義社会でも価値規定が残る」と言っている」(ここでもマルクスが「資本論」のどこでどのような文脈の中で語っているかを言わないでいる)と話していることからも明らかである。