ヘーゲルの歴史的限界は何か、というのは極めて難しいテーマであるが、彼の市民社会論に全く階級概念が抜けている、という点は数学における公理のように自明なことではなかろうか。だとすれば、この欠陥が彼の国家論にどのような歪みをもたらしているか、というのが次の問題となる。
私はまだ大雑把にしか「法の哲学」を読んでいないのであるが、あえて私の見解を述べてみたい。彼の説の最大の問題点は、§279(中公クラシックス版 p.311)の
だからして絶対的な決定を行なうところの全体のこの契機は、個体性一般ではなくて一個の個体、すなわち君主である。
という文ではなかろうか。確かに、ヘーゲルの時代においては「すなわち」の後にくるのは君主しか考えらなかったのかもしれないが、現代においては「すなわち」の後にくるのは共産党しか考えられない。ここで、私はプロレタリアート独裁を主張しているのであるが、プロレタリアート独裁と民主主義諸制度との関連ついては、今のところ日本共産党の公式見解に満足している。
ヘーゲルにおける君主は、「署名するほかになすべきことはない」(p.318)君主で、これは当時としてはかなり進んだ思想ではないかと思うのだが、社会主義国家も発展していけば、共産党そのものを不要にしていくであろう。国家が死滅するかどうかはわからないが。
このようなことを書きながら、グラムシとの関連で、党を現代の君主とみなした説をいつかどこかで読んだ記憶がある。誰か思い出させてほしい。それにしても、今の日本共産党は現代の君主たる風格を兼ね備えているのだろうか.