理論戦線における立ち遅れは目も当てられない、というのが私の持論であるが、経済学とて例外ではない。マルクスに対するファザコンを近親交配によってますます拡大再生産しているマルクス経済学の現状をみると、近代経済学の批判的摂取の重要性は改めて指摘するまでもないであろう。
筆者の専攻は統計学であり、これまでの研究を土台に少し哲学も勉強しながら認識論の問題を考えてみようと思っている。経済学のことはずっと気になっていたのだが、どうも私には手におえそうにもない。さいわい、このサイトには、Nicht君のような頼もしい学生も見ているようなので、これまで少し考えたことを若い人に託してみたい。
近代経済学を批判的に見る場合、情報の問題、貨幣の問題等考えるべきことは多いが、私は、労働市場の問題および生産関数の問題が最重要だと思う。
1. 労働市場の問題
ミクロ経済学で通常教えられる労働市場は、労働者が与えられた賃金のもとで、働く時間を自由に供給できる、というものである。絶対労働日などという視点は全くないのである。しかし、たとえ労働の総需要と総供給が一致していても、ある労働者は失業し、ある労働者は過剰に働かされるというのが現実である。それゆえ、賃金交渉においては労働者は常に不利な立場に立たされる。
森嶋は、労働力市場は極めて人間的である、と書いている。(思想としての近代経済学、p.70)しかし、どうも彼はこの問題を社会学の問題であるように考えているようだ。しかし、近代経済学の中に絶対労働日の概念を導入することは、経済学の核心問題だと思う。
2. 生産関数の問題
2-1 置塩信雄の「蓄積論」は、学生時代私のバイブルであった。しかし、その後近代経済学を勉強している中で、「稼働率」という概念がどうしてもわからなかった。確かにputty-crayの仮定を導入すればいいわけだが(置塩信雄「新投資・技術・稼働率の決定」、神戸大学 経済学研究 32)、この仮定はスマートな仮定とは思えない。
普通の近代経済学者でも現実を分析しようと思えば、稼働率を口にせざるを得ない(例えば、吉川洋)が、正確な定義はしていないようだ。ところで、私はこの問題について最近までものすごい思い込みをしていた。それは、生産関数をf(K, N)と書いたとき、このKはストックだとばかり思っていたのである。だからどうだといわれると困るのだが、この点は稼働率を正確に定義する突破口になるかもしれない。
2-2 しかし、資本の回転まで含めて、生産プロセスを適切に描写するためには、やはり、森嶋の「新しい一般均衡理論」の第3章の方法によって根本的に研究しなければならないだろう。一つのキーワードは会計価格(p.69)であろう。また、固定資本は1年使えば1才年をとる、というのも単純過ぎるかもしれない。しかし、森嶋氏の説明でどうしてもわからないのは、 たとえば、「経済内部の最高利潤率よりも低い利潤しか生み出さない過程に対しては、企業家の能力や時間が投下されることはない」としている点である。しかし、その過程の利潤がたとえ負であっても、それによって他の過程が高い利潤を生み出すのであれば、 前者の過程も実行されるはずである。この点が、複数の生産工程が一つの企業に属している場合と、いくつかの企業に分属している場合の根本的相違ではなかろうか。
3 実は1と2とは、切っても切れない関係にある、と思う。
では、若者達よ。後は任せた。