不破氏の赤旗祭りでの講演を読みましたが、祭りでの一般聴衆の前での講演という性格を差し引いても、資本論や資本主義、社会主義について論じながら、「労働力の商品化」というキーワードに一言も触れていないのは、彼の資本論研究の限界を端的に示すものだと思われます。私は、統計的認識論の研究に専念するため経済学の研究は放棄したので、少し詳しいことは、11月4日の私の投稿を参照にしてほしい、と思います。
不破講演では、科学の目について語っているので、科学的な目を持つための実践的なアドバイスを一つ。これは、私が恩師から教えていただいたものです。「難しい問題は、まず問題を単純化して定式化し、それをきちんと解いてみせよ。」恐慌は動学的な問題で複雑です。この問題を解く前に、ケインズが試みたように、静学的になぜ失業が発生するのか、をきちんと解明するほうが賢いと思いますし、事柄の本質が浮き彫りにされると思います。若い(年齢のことではなく気持の)人の意欲的研究を期待します。
不破氏は、生産手段の社会化を論じています。これは、ヘーゲルの学説の根幹にかかわる問題でもある、と思われます。以下の思想は、ヘーゲルの著作のあらゆるところに現われるのですが、今回は、ヘーゲル教育論集、国文社、p。235前後の記述に基づいて論じます。
ヘーゲルは、新たなるものは真でなく、真なるものは新しいものではない、という言葉を引いて、思いつきは、それが野暮で気違いじみたものであればあるほど、ますます独創的で卓越したものとみなされる、と述べています。これに対して、 哲学はもっぱら規定性を通して明晰なものとなり、伝達可能なものとなり、共有財産となることができる、と指摘しています。このことは、ひとり哲学にとどまらず経済学や経営学にもあてはまるでしょう。しかし、経済や経営に関する学的認識が共有され、一人の思想と万人の思想が一致したとしたら、生産手段を社会全体で運営していくにあたってどのような組織形態が最も望ましいか、などということが大きな問題になるのでしょうか。問題そのものがなくなってしまうのではないでしょうか。
ところで、資本論が難解かどうかということですが、明晰かどうか、という点では答えが出ているのではないでしょうか。また、私が恩師から受けたアドバイスをマルクスが知っていたならば、彼はもっと世の中に役に立ったことでしょう。よく研究もしないで、ヘーゲルの猿真似をすることは、危険だと思います。もっとも、資本論の構成については、実体経済の研究に裏打ちされているものだけによく研究すべきものだとは思います。しかし、前回も触れたように実体即主体であるのは、精神の領域での話だと思います。