これは「不破氏の赤旗祭りでの講演について」の前に書いたものですが、どうも送信し忘れたようです。そのため、「不破氏の・・・」のなかに意味不明の部分があったかと思います。以前、これらの概念について討論されていたので書いてみました。
不変、普遍、不偏
桜坂さん、レスありがとうございます。ただ、私の11月10日付けの投稿は、改めて読んでみると「屁理屈」なようなきがします. 屁理屈とはなにか、というのはヘーゲル理解の上でも重要ですし、 また、相手の屁理屈を見ぬき、また自分自身屁理屈の陥穽に陥らないためにも大事な問題だと思いますが、それは後日。
タイトルの3つについてヘーゲルの述べることを、簡単に紹介しておきます. テキストは小論理学です。
不変:事物は変転するけれど、そのうちには「不変なものがある. そしてこの不変なものがまず本質である.」 §112 補遺(文庫版 p.11)
すなわち、不変というのは、本質とはなにかという話と関連しているということです。しかし、「まず」の一言に注目するなら、本質=不変 という風には考えていないようです。
普遍:概念はそれを規定しようとすると、主語と述語に分離される(原始的分割)。このとき、 主語は個であり、述語は普遍である.そして、この2つの異質のものをつなぐのがそこで言い表されている特殊な内容である。ところで、概念における普遍を単なる共通と解してはならない、というはヘーゲルが口をすっぱくして解くところです。ヘーゲルは概念のイメージを持たせるための例として、植物の胚を例にしていますが、いまだったら遺伝子やDNAを例にしたでしょう。
以上 §163-173で私が学んだことです。
不偏は宿題にします。
ところで、書きながらふと思ったのですが、ヘーゲルは実体を単なる実体としてではなく主体としてとらえた、ということはよくいわれていることですが、それはあくまでも精神を念頭においてことです。しかるにマルクスは、経済のようなたんに実体に過ぎないものまで主体である、と考えてしまった。つまり、単なる「物」にすぎないものが概念の自己展開をしているかのように、ヘーゲルのスタイルで資本論を書いてしまった。そこに、資本論をあれだけ読みにくい書物にしてしまった原因があるのではないか。以上、あまりにも粗雑ですが、今後研究を進める上での一つの仮説にしたいと思っています。