経済学の古くて新しい大問題といえば、何と言っても、セイ法則である.それは、「供給はそれ自らの需要を創造する」と表現される(森嶋通夫『リカードの経済学』p.157)。
ところで、セイの名前は、ヘーゲルの著作にも現われている。例えば、長谷川宏訳『法哲学講義』(今回の引用は全てこの本からです)で、国家経済学について言及し、そこで、「スミス、セイ、リカードを参照」(p.377)、となっている。
ヘーゲルのような天才だから、そう読者に指示した以上、自分でもセイの著作を読みこなしているはずであるが、セイの法則を真っ向から否定している。
「労働によってうみだされる財産は無限に増加していきます。うみだされた手段が不足するということはなく、不足するのはむしろ消費者や欲求のほうです」p.395
「生産量は増大するが、生産過剰となり、それに見合う消費者がいないため、そこに大きな問題が生ずる」p.480
「生産量はたしかに増大するが、生産が過剰となり、消費者が不足するところに、まさしく問題がある」p.481
さらに、
「ここにあらわれているのは、富の過剰にもかかわらず、市民社会は十分に豊かではないこと、つまり、貧困の過剰と賎民の出現を防ぐのに十分な共同財産を所有していないこと」 p.480
とある。ここまでくると、失業問題解決のために公共投資を提唱するケインズの1歩手前ではないか。ヘーゲルはケインジアンだったというべきか、ケインズがヘーゲリアンだったというべきか。
ただ、ここでいう「共同財産」とは、たぶんp.393の「万人が万人に依存する、という生産と享受の全面的な網の目のつながりは、各人にとって、共同の持続的な財産であって、・・・」と書かれているこの財産のことであろう。限界生産力逓減の法則は有名であるが、最近の経済学では、産業の集積などによる「逓増」について議論されることが多いようである。しかし、このネットワーク効果こそ経済の根本である、とするヘーゲルの指摘は鋭いものがある。
最近の「市場万能論」についても、
「一切はおのずからなる流れのなかで調整されるしかない。が、調整がどのようにおこなわれ・・・るかは、問題として残ります。・・・こうして、労働力人口が流動化するなかで、何百、何千という人が職を失います。
ベストだっていつかはおさまり、秩序は回復されるが、何百、何千という人がベストで死んだのは事実で、みんなが死ねば、秩序は一から作りなおされます。かつては行政当局や政府があれこれ指示したが、いまはなにもしないのがよいことだとされる」(p.493、4)
ついでですが、 「欲求を多様化し、新しい手段を考案し、消費者にできるだけ多くの欲求をもたせるという点では、消費者より生産者の方がずっと熱心です」(p.385)という指摘も興味深いものがある