エンゲルスは不可知論について、次のように述べている。(フォイエルバッハ論(藤川・秋間訳、国民文庫版1976年第8刷、二、p.27)
しかし、そのほかになお一連の哲学者たちがいて、彼らは、世界が認識できるということに、あるいは少なくともあますところなく認識できるということに、異論をとなえている。そのなかにはいるのは、近代の哲学者のうちではヒュームとカントであって、この二人は哲学の発展のうえで非常に重要な役割を演じている。このような見解を反駁するうえで決定的に重要なことは、観念論の立場から可能であったかぎりでは、すでにヘーゲルが述べた。中略。右のような哲学的妄想 中略 にたいする最も適切な反駁は、実践、すなわち実験と産業である。もしわれわれがある自然現象を自分自身でつくり、これをその諸条件から発生させ、そのうえそれをわれわれの目的に役立たせる「ことによって」、この自然のついてのわれわれの認識が正しいことを「証明することができれば」、カントの認識できない「物自体」はそれで終わりである。
この記述に対する疑問は、私が「」でくくった部分で、「…ことによって」認識の正しさが「証明」できるか、という点である。 確かに、自然科学で実験が重要なことは言うまでもないし、また狭い実験室の中で厳格に制御された条件の元で行なわれる実験だけではなく、産業のなかで働く技術者の知見が科学に重要な役割を果たすことは疑いを得ない。しかし、そのことと実験と産業によって認識が証明=完成されるのか、とは全く別問題である。
ところで、新聞赤旗日曜版12月29日・1月5日合併版の「ごはんを科学する」に「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣くとも蓋とるな」という「認識」を紹介している。ここでは「コメをご飯に転化させる」現象が問題となっているが、この「自然現象を自分自身でつくり、これをその諸条件から発生させ、そのうえそれをわれわれの目的に役立たせる」ことは、昔から(上野さん(担当記者)、この言葉がいつ頃歌舞伎のせりふに登場したか教えてください)実践していたわけだけれど、それでもって「あますところなく認識」したと言えないことは明らかある。
この部分に関連して、エンゲルスは「物自体」の例として、「有機科学」が作りはじめる前の「あかね草の色素アリザリン」を例にしているが、このような特定の物質を物自体の例として揚げることが適切なのか、吟味すべき問題である。
また、ヘーゲルによるヒューム・カント批判については、唯物論者の「立場から可能であったかぎり」での最大級の賛辞を述べている。 しかし、ヘーゲルの反駁のどの部分が唯物論の立場から評価でき、またどの部分が評価できないか、をヘーゲルの叙述に即して明確にすることは「正統派」マルクス・エンゲルス主義者に残された課題であろう。これに関する文献があったら(無かったら大変だ)、どなたか紹介していただきたい。