JCPWで、私の投稿論文などをやヘーゲルさんの投稿が取り上げられ、かなり専門的な議論が展開されています。
小田さんの投稿「Re:不破講演「レーニンと市場経済」に関する2つの論評 part2」で、私の投稿論文が引用され、批判されています。この中で、私の考えが小田さんに的確に理解されていない部分がありました。引用された部分を読み直してみると、小田さんのような理解が可能な表現でした。私の文章がまずかったと思いますので、とりあえず、この部分の訂正だけでもさせていただくこととします。
<私の投稿論文から小田さんが引用された部分>
労働の生産性は労働意欲の問題だけではないが、労働の生産性を「労働者が働かない」という意味に限定すれば、市場経済の効用は抜群である。資本主義社会では、企業幹部や高級官僚が堕落しようが、腐敗しようが、底辺の労働者には「働かなければ生きていけない」という厳しい原理が働く。そして、底辺の労働者には厳しい労働規律が要求され、これに従わなければ賃金を受け取ることができない。 ソ連時代においても、労働規律の引き締めや労働意欲を刺激する措置がたびたびとられた。資本主義顔負けの出来高払い制さえ導入されたこともあった。しかし、生産性が大幅に向上することはなかったし、事態が基本的に改善されることもなかった。ソ連などにおける労働の生産性の向上は、労働規律や労働密度の強化など労働する側の問題というよりも、むしろ、労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分などによるところが大きいといわねばならない。したがって、これは単に「市場経済の効用に期待する」ことで解決されるほど単純な問題ではなく、政治体制、経済活動全般の問題である。
<これに対する小田さんの投稿からの引用>
このさざなみの「働かなければ生きていけない」故という見解は、資本主義経済における企業内での労働規律の高さの議論としてはややナイーブすぎるきらいがあるように思えます。これでは、80年代までの日本の大企業において、国際的に見て比較的高賃金であり、かつ低失業率の下で尚、国際的に見て高い労働生産性を達成し、かつ「高い質の労働者」という国際評価を得るほどの労働規律の高さを維持していた現象を十分に説明できないように思います。他方、社会主義における「労働の生産性の向上は、労働規律や労働密度の強化など労働する側の問題というよりも、むしろ、労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分などによるところが大きい」という評価は、通説的な議論とかなり異なったものであるように思います。というのは、むしろ「労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分など」において資本主義経済諸国ほどスムーズに機能しなかったが故に、70年代以降の産業構造の変化と技術革新の波に対応できず、60年代まではほぼ対等の経済成長パフォーマンスを見せて競争していた資本主義経済諸国に70年代以降、大きく差をつけられた、というのがより通説的な理解であるように思えるからです。(中略)
さざなみ通信の議論は、上記のようなより通説的な見解を全く考慮しておらず、また、それらを批判できる議論にもなっていません。ただ旧態依然とした階級闘争至上主義的な見方を繰り返しているだけです。実際、さざなみの言う「資本主義経済では、企業幹部や高級官僚が堕落しようが、腐敗しようが」、労働者の方は「働かなければ生きていけない」故に、労働生産性が高まる、という見方は、あまりにナイーブです。幹部や官僚の堕落や腐敗の酷さは社会主義経済の方がより普遍的に見られた現象であり、それは企業幹部に関しては株式市場による評価を受けないが故に、そして政府官僚に関しては、市民による民主主義的な監視を受けないが故に、彼らの裁量次第で意思決定を操作する余地が大きい事から説明できるわけです。つまり、資本主義経済におけるように法に即した行為を遵守する誘因がないわけです。また、労働規律や労働生産性に関しても、経営組織の効率化や労働契約の様々な制度的工夫によって、必ずしも「働かなければ生きていけない」程の究極的なインセンティブがない状況でも、高い規律水準の維持や生産性の向上に成功してきている例が、日本や北欧福祉国家において見出されます。実際、「働かなければ生きていけない」タイプのインセンティブが有効であるには、労働市場において高失業率が維持されていて、かつ失業時の社会保障が貧弱であって、労働者にとって解雇される確率と失業コストが高い状態である事が必要なわけですが、90年代以前の日本経済はこの種の条件を満たしてはいなかったと言えるわけです。
「ソ連などにおける労働の生産性の向上は、労働規律や労働密度の強化など労働する側の問題というよりも、むしろ、労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分などによるところが大きいといわねばならない」という文脈における、私の主張は「ソ連などにおける労働の生産性の向上は、……というよりも、むしろ、労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分などに依存するところが大きいといわねばならない。」あるいは、「ソ連などにおける労働の生産性の停滞は、……というよりも、むしろ、労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分などによるところが大きいといわねばならない。」というものです。
したがって、この点に関するかぎり、小田さんが述べている「通説的な理解」と私の理解との間にそれほど大きな隔たりはありません。また、これは私の文章に起因するものと思い訂正させていただきます。
私の理解もおおむね「通説的な理解」でありますから、この段落の終わりを「したがって、これは単に「市場経済の効用に期待する」ことで解決されるほど単純な問題ではなく、政治体制、経済活動全般の問題である。」と結んでいるのです。
「幹部や官僚の堕落や腐敗の酷さは社会主義経済の方がより普遍的に見られた現象」という小田さんの指摘に対して、私も特に異存はありません。私は、ひょっとしたら、これらがソ連崩壊の主要な要因のひとつであったのではないか、と思っています。私は経済学の素養もなく、なかなか勉強する時間もつくれませんが、これらに対して「企業幹部に関しては株式市場による評価」が有効であることぐらいのことは私にもわかります。
しかし、「商品流通を基盤とした労働生産性の向上は同時に不平等の増大を意味する。指導層の富裕の増大は大衆の生活水準の上昇を大きくうわまわりはじめる。国家の富の増大に平行して新たな社会的階層分化の過程が進行する」というトロツキーの指摘が、共産党が指導する中国やベトナムで現実に進行しつつある事態をみると、市場経済の効用を説く前に、解明すべき問題があるのではないか、と思われてなりません。また、今日の日本経済の長期にわたる不況──他ならぬ市場経済のもう一面──を目のあたりにして、私に経済学的素養の持ち合わせがない故に、市場経済の効用を説く不破氏があまりにも安直に見えた、ということです。
いずれにしても、これらは経済学的にアプローチし、解明されるべき問題でしょうが、不破氏が紹介している「シャンデリアや家具の製造で評価の基準が重さであった」とか、水田に沈んでしまうトラクターの話などは、「株式市場による評価」などという次元の問題ではなく、度し難いまでの「官僚主義=上意下達・上級の決定は絶対など」の問題といった方がよいのではないでしょうか。官僚主義が共産党やそれが君臨する国家においてどれほど有害な役割を果たしたかを語るべきではなかったか、と思います。
<小田さんの投稿より>
今後、社会主義の実行可能性を主張する論者は、少なくとも30年代のミーゼス及びハイエクとオスカー・ランゲとでなされた「社会主義経済計画論争」での議論内容、及びその後のこの系列の議論を踏まえた議論をすべきであると思います。少なくとも不破さんは「社会主義経済計画論争」を意識した発言をしているのでは、と推測する事ができます。その意味で、少なくともこの点に関する限り、さざなみ通信の方が旧態依然とした理論にしがみついているのではないか、という気がします。(不破講演「レーニンと市場経済」に関する2つの論評 part1から)
こうした問題に関して、さざなみ通信は全く考慮していないように見えます。他方、不破氏の講演を読む限りでは、上述した「依頼人-代理人関係」としての企業組織論のような議論を意識しているのかどうかは解りませんが、企業組織の効率性と良パフォーマンスの維持の為に、市場メカニズムが有益である事に関しては論じています。その意味で、不破氏の方が現代社会に関してはるかに柔軟で洗練されたものの見方をしており、日本におけるオールタナティブ社会の実行可能性問題に関して、さざなみ通信よりもより実践的な議論をする可能性を持っていると言えるように思います。(不破講演「レーニンと市場経済」に関する2つの論評 part2から)
不破氏についてはかなり高い評価をしているようですが、これについては、私の見解では疑問符がつきます。
私の投稿論文へのご批判は、勉強させていただくところも多かったし、経済学の素人の投稿に対してもきちんと論評をしていただいたことに、率直にいって感謝しております。
私は、さざ波通信の共感的投稿者でありますから、小田さんがいうところの「社会主義の実行可能性を主張する論者」になるだろうと思います。もはや、史的唯物論にしても、マルクス主義経済学にしても、「伝統的理論」はほとんど役に立たないところへきているであろう、という認識は私にもあります。できるだけ時間をつくって勉強したいと思います。